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湯慕華 : ミニ英和和英辞書
湯慕華[ゆ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ゆ]
 【名詞】 1. hot water 
: [はな]
 【名詞】 1. flower 2. petal

湯慕華 ( リダイレクト:湯浅浪男 ) : ウィキペディア日本語版
湯浅浪男[ゆあさ なみお]

湯浅 浪男(ゆあさ なみお、1927年 - )は、日本でのキャリアを経て台湾に帰化した映画監督脚本家映画プロデューサー、元映画館経営者である〔キネ旬, p.441.〕〔田中, p.85-86.〕〔便覧, p.66.〕〔年鑑, p.325, 386.〕〔年鑑, p.332-333, 382.〕〔映画「神童桃太郎」「桃太郎斬七妖」(1970、台湾)について 戦後台湾における「桃太郎」 武久康高比治山大学、2009年12月付、2014年8月29日閲覧。〕〔黃, p.238-249.〕〔''湯浅浪男''・''岩佐浪男''、日本映画情報システム、文化庁、2014年8月29日閲覧。〕〔''湯浅浪男''・''岩佐浪男''日本映画製作者連盟、2014年8月29日閲覧。〕〔''湯浅浪男''・''岩佐浪男''KINENOTE, 2014年8月29日閲覧。〕〔''湯浅浪男''・''岩佐浪男''日本映画データベース、2014年8月29日閲覧。〕〔''Namio Yuasa''・''Mu-hua Tang''インターネット・ムービー・データベース 、2014年8月29日閲覧。〕。20年間におよぶ映画館勤務から小千谷東映支配人を経て、1962年(昭和37年)11月、映画製作会社第7グループ事務所を設立、興行畑から製作畑へ転向する〔〔〔〔〔。1964年(昭和39年)6月、岩佐 浪男(いわさ なみお)の名で監督デビュー、翌1965年(昭和40年)からは本名に戻し、黎明期の成人映画を量産、松竹との配給提携も行い、安藤昇の映画初主演作『血と掟』および初期出演作を監督する〔〔〔〔〔〔〔。1966年(昭和41年)に行った台湾との合作をきっかけに活動拠点を台湾に移し、1971年(昭和46年)6月、正式に帰化する〔〔〔。帰化後の本名は湯 慕華(とう ぼか、タン・ムーファ)〔〔〔。別名湯 淺あるいは湯 濳(とう せん)〔。
本項では日本での活動の長さと作品量に鑑み、表題を日本名とした〔〔〔〔〔〔〔〔。
== 人物・来歴 ==

=== 興行から製作へ ===
1927年(昭和2年)、中華民国ハルビン特別市(現在の中華人民共和国黒竜江省ハルビン市)に生まれる〔。
内地に引き揚げた後、1940年代に映画館勤務を始め〔〔、1953年(昭和28年)2月に茨城県猿島郡古河町(現在の同県古河市)の新興館の経営が変わり、館名を古河セントラル劇場(経営・森田三郎、のちの古河オデオン)と変更〔年鑑, p.344.〕〔総覧, p.33.〕、湯浅は26歳で同館の支配人に就任している〔。同館は戦前から存在する古い映画館で、新興館になる前は共楽館という館名であった〔年鑑, 10章 p.48.〕。その後、1955年(昭和30年)には、古河セントラル劇場を退職して同県水戸市水戸大映映画劇場(経営・間宮厚)に移籍、同館の支配人に就任している〔〔便覧, p.31-32.〕。同館支配人を8年間務め〔〔、1963年(昭和38年)には新潟県小千谷市の小千谷東映を経営〔、映画館で20年のキャリアを積む〔〔。
それに並行し、1962年(昭和37年)11月、映画製作会社として第7グループ事務所を設立〔〔〔、事務所を東京都港区赤坂新町(現在の赤坂7丁目5番34号)のリキビルに置き、湯浅は同社の代表を務めた〔。同社設立第一作として、成人映画『熱いうめき』を製作、監督として元新東宝三輪彰を招いた〔〔〔〔〔、2014年8月29日閲覧。〕。同作は、1963年(昭和38年)4月25日に公開された〔〔〔〔〔。三輪は、同作のあと『成熟への階段』(1963年11月公開)、『濡れた手』(1964年5月公開)を監督したがこれで降板し、1964年(昭和39年)6月に公開された『夜の魔性』については、湯浅が岩佐 浪男の名で監督した〔〔〔〔〔。翌1965年(昭和40年)1月に公開された湯浅の監督作『禁じられた遠い道』からは、本名に戻した〔〔〔〔〔。『日本映画発達史』の田中純一郎は、同書のなかで成人映画黎明期のおもな脚本家・監督として、若松孝二、高木丈夫(本木荘二郎の変名)、南部泰三小林悟新藤孝衛糸文弘小川欽也小森白山本晋也宮口圭深田金之助藤田潤一小倉泰美浅野辰雄渡辺護、片岡均(水野洽の変名)、福田晴一とともに、湯浅の名を挙げている〔。
湯浅の事務所には、同じく赤坂に事務所を構える安藤昇が顔を出しており、湯浅は安藤の著書の映画化と出演を持ち掛け、『血と掟』の企画を実現する〔〔〔〔〔〔。同作は松竹が配給して全国公開され〔〔〔〔〔〔、同年度の松竹の配給作品で最高の興行収入を上げている〔松竹, p.276.〕。以降、安藤組関連のヴァイオレンス映画を数本監督し、松竹に供給することになる〔〔〔〔〔〔。1966年(昭和41年)6月に公開された『危険な戯れ』(主演松井康子)以降は、同じ赤坂の国際ビデオ(代表・建部博、1962年5月設立〔〔)と提携して、映画製作を行った〔〔〔。「独立プロ初の十大女優総出演による超大作」と銘打ち、香取環、松井康子、谷口朱里可能かづ子飛鳥公子桂奈美清水世津らが出演した成人映画『悲器』(1966年9月公開)からは、国映(代表・矢元照雄、1957年6月設立〔)と提携した〔〔〔〔60年代まぼろしの官能女優たちPART II ラピュタ阿佐ヶ谷、2014年8月29日閲覧。〕。同年11月、台湾との合作『母ありて命ある日に』をきっかけに台湾に渡った〔〔。
台湾では、同年中に『霧夜的車站』および『東京流浪者』を公開し、日本に増して劇場用映画を量産しており、1969年(昭和44年)には台湾(中華民国)への帰化を申請している〔〔〔。両作には東條民枝(旧名・君和田民枝)、神原明彦〔、2014年8月29日閲覧。〕、山本昌平津崎公平、当時湯浅の助監督であった安藤達己(1938年 - 2013年)が出演しており、津崎は『青春悲喜曲』『懐念的人』、安藤は『難忘的大路』にも出演している〔。1970年(昭和45年)には、同地において1967年(昭和42年)に公開されていた『大忍術映画 ワタリ』(監督船床定男、日本公開1966年7月21日)〔, 2014年8月29日閲覧。〕で絶大な人気を得た少年俳優金子吉延を日本から招聘し、金子を主演に『神童桃太郎』『桃太郎斬七妖』の2作を製作、湯浅はこれを湯 慕華の名で監督している〔〔。1971年(昭和46年)6月、正式に帰化する〔〔〔。
『日本映画監督全集』の湯浅の項を執筆した山根貞男は、1975年(昭和50年)の夏に日本に一時帰国、その後台湾に戻ったという話を伝えているが〔、その後の消息は不明である。台湾で22作の劇場用映画を監督、あるいは脚本提供していることがわかっている〔。『悲器』の撮影技師であり、ともに台湾に渡り、『霧夜的車站』等の撮影をした中條伸太郎(1934年 - 2001年)〔、2014年8月29日閲覧。〕〔中條伸太郎 、 、2014年8月29日閲覧。〕は、2001年(平成13年)7月2日に台北で亡くなっており〔、湯浅の助監督を務め台湾では俳優として出演した安藤達己も、2013年(平成25年)2月7日に亡くなった〔安藤達己監督・安らかに… ひし美ゆり子、2013年3月15日付、2014年8月29日閲覧。〕。湯浅が存命であれば、2014年(平成26年)には満87歳の高齢である。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「湯浅浪男」の詳細全文を読む




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