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榊原康政 : ミニ英和和英辞書
榊原康政[さかきばら やすまさ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [さかき]
 【名詞】 1. sakaki tree (sacred Shinto tree) 2. Cleyera japonica
: [はら, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation
: [せい, まつりごと]
 【名詞】 1. rule 2. government 

榊原康政 : ウィキペディア日本語版
榊原康政[さかきばら やすまさ]

榊原 康政(さかきばら やすまさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将大名上野国館林藩の初代藩主。徳川氏の家臣。康政流榊原家初代当主。
徳川四天王徳川十六神将徳川三傑に数えられ、現在も家康覇業の功臣として顕彰されている。兜は、大鈷剣前立鉄錆地六十二間筋兜。
== 生涯 ==
=== 出生から家督相続 ===
榊原氏三河仁木氏の一族とされ、後に伊勢国一志郡榊原に移って榊原を称した。後に伊勢に残った本家筋の系統と三河に戻った分家筋の系統があったことが知られ、三河に戻った系統でも台頭してきた松平氏の直臣になった系統〔永正15年(1518年)頃の松平家の奉行人の1人に「榊原主計忠直」というが存在していたことが確認できるが、この人物は『寛政譜』における旗本・榊原経定家の祖先とみられ、康政の祖先ではないと考えられている(小宮山、2015年、P168-170)。〕とそれ以外の系統が存在していた。康政の系統は松平氏譜代家臣の酒井忠尚に仕える陪臣の家柄であり、分家筋でも有力な存在とは言えなかった(康政の系統が伊勢の榊原氏本家から直接分立したのか、松平氏直臣身分となった榊原氏分家からの分立なのかは不明である)〔小宮山敏和「榊原家家臣団の形成過程と幕藩体制」(初出:『学習院大学 人文科学論集』15号(2006年)/所収:小宮山『譜代大名の創出と幕藩体制』(吉川弘文館、2015年) ISBN 978-4-642-03468-5)〕。
天文17年(1548年)、榊原長政の次男として三河国上野郷(現在の愛知県豊田市上郷町)に生まれる。幼い頃から勉学を好み、書を読んで、字も大変上手かったという。13歳の時、松平元康(後の徳川家康)に見出され、小姓となる。三河一向一揆鎮圧戦で初陣を果たし、家康から武功を賞されて「康」の字を与えられた。康政は兄・榊原清政を差し置き、榊原家の家督を相続しているが、理由として、清政が謀反の疑いで切腹した家康の長男・松平信康の傅役であったことから、後悔の念で自ら隠居したためとも、清政が病弱であったため、度々康政が名代を務めることが多く、それ故に康政が家督を継いだともいわれるが、未だ定かではない。ちなみに家康が関東に移封された後、康政は度々清政を見舞っている。
永禄9年(1566年)、19歳で元服。同年齢の本多忠勝と共に旗本先手役に抜擢されて、与力50騎を付属される。以後も家康の側近にあって、旗本部隊の将として活躍。元亀元年(1570年)の姉川の戦いでは朝倉軍の側面攻撃で多大な武功を立てている。元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いでは家康撤退時に康政は浜松城に入らず、昼間のうちに浜松城に入れなかった味方兵を呼び集めて夜を待ち、一斉に兵に声を上げさせながら敵陣に駆け入らせ、動揺し逃げ惑う武田軍を瓦解させてから浜松城に入ったという。天正3年(1575年)の長篠の戦いでは決死の覚悟で徳川本陣に突撃してくる内藤昌豊を本多忠勝と共に戦って家康を守ったという。天正9年(1581年)の高天神城の戦いでは先陣を務めた。翌天正10年(1582年)の本能寺の変発生後の家康の伊賀越えにも同行している。
=== 本能寺の変後 ===
天正12年(1584年)、家康が信長の死後に頭角を現した羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と対立し、小牧・長久手の戦いに至る。この合戦で秀吉の甥・秀次の軍勢をほぼ壊滅に追い込み、森長可池田恒興を討ち死にさせた。また江戸時代に成立した『藩翰譜』によれば、康政は秀吉の織田家の乗っ取りを非難する檄文を書き、これに憤怒した秀吉は康政の首を獲った者には十万石を与えるという触れまで出したという。この後、二人は和解している。詳しくは人物・逸話を参照。
激怒した秀吉は康政の首に10万石の賞金をかけたと言われるが、康政は羽黒の戦いでも戦功を挙げた。もっともこれによって秀吉の注意を引き、家康と秀吉が和睦すると京都への使者に立てられる。天正14年(1586年)11月、家康の上洛に随身し、家康は同月5日、正三位に昇叙し、康政は同月9日、従五位下式部大輔に叙任され、豊臣姓を下賜された〔村川浩平「天正・文禄・慶長期、武家叙任と豊臣姓下賜の事例」『駒沢史学』80号。〕。
天正18年(1590年)、小田原征伐では徳川軍の先手を努めた。同年、家康が関東に移封されると関東総奉行として本多正信らを監督し、江戸城の修築に務める傍ら、上野国館林城群馬県館林市)に入り、忠勝と並んで家臣中第2位の10万石を与えられる。館林では堤防工事(利根川東遷工事の一環)や、街道整備などに力を注いだ。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「榊原康政」の詳細全文を読む




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