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桓範 : ウィキペディア日本語版
桓範[かん はん]
桓 範(かん はん、? - 249年)は、中国後漢末期から三国時代にかけての武将、政治家、文学者。に仕えた。元則豫州沛国の人。妻の名は仲長。子は男子一人(名は不明)。『三国志』魏志「諸夏侯曹伝」などに記録がある。
== 生涯 ==

=== 魏臣として出世 ===
建安年間の末期、朝廷の実権を握る曹操に仕え、丞相府に入った。沛国出身者のうち、仕官した順番が曹真の次であったという。延康年間には羽林左監に任じられた。
曹丕(文帝)が禅譲により即位すると、引き続き魏に仕えた。曹丕の命令で王象達と共に『皇覧』の編集に従事した。
曹叡(明帝)の時代、中領軍・尚書となった。尚書令在任時は、職務に通じた人材であると高く評価されていたという。
後に地方に出され、征虜将軍・東中郎将、使持節都督諸軍事に昇進し、下邳に駐屯した。あるとき、徐州刺史であった鄭岐と言争いになったため、節を利用して鄭岐を斬ろうとした。しかし鄭岐が上奏したため、裁定が行なわれた結果、非は桓範の側にあると決定を下されてしまった。このことで免職となり故郷に戻されたが、しばらくして兗州刺史として復帰した。
桓範は自分の境遇について不満を募らせていた時、冀州牧に転任させられるという噂を聞いた。これは鎮北将軍の呂昭の配下になることを意味していた。呂昭はかつて桓範より下位の人物に過ぎなかったが、才能と実績により今や桓範を凌ぐ地位を得ていたのである。桓範は呂昭の目下になることを恥じて妻に愚痴をこぼしたが、妻が桓範の以前の失敗も挙げてからかったため、痛いところを指摘された桓範は妻の腹を剣のつかで突いた。このため、身ごもっていた妻は流産することになったという。桓範は結局、病気と称して冀州への転任を辞退した。
曹芳(斉王)の時代となった正始年間、桓範は大司農に任命され、清潔で簡明という評価を得た。当時、司馬懿と共に政治の実権を握っていた曹爽は、同郷の先輩でもある桓範に対し特に敬意を払っていたが、特段親しくすることはなかったという。曹爽は司馬懿を退けた後、側近達に政治を任せ悪政を敷いていた。あるとき、王粛が政治に対して不満を述べたが、その相手の一人として桓範の名が挙がっている(「王朗伝」附「王粛伝」)。
桓範は若い頃から『漢書』を研究し、その成果を長い時間をかけて纏め上げ、『世要論』という書に著した。桓範は当時、太尉であった蒋済と同席する機会があったため、数人の高官も同席する中、『世要論』を蒋済に見せ、その評価を求めた。桓範が、蒋済なら公平に評価してくれるだろうと期待していたが、蒋済はそれを見ようともしなかった。このため桓範が蒋済に怒りをぶちまけると、蒋済も桓範を見据えたまま、返事もしようとしなかったという。魏志では「桓範も蒋済も、ともに剛毅な性格であったからだろう」と綴っている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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