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東胤頼 : ミニ英和和英辞書
東胤頼[とう たねより]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ひがし]
 【名詞】 1. east 
: [たね]
 【名詞】 1. issue 2. offspring 3. paternal blood

東胤頼 : ウィキペディア日本語版
東胤頼[とう たねより]

東 胤頼(とう たねより)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。千葉氏の一族。千葉常胤の六男。東氏遠藤氏の祖。胤頼は六男であり従五位の別称大夫を付し、東六郎大夫と称した。
== 生涯 ==
以仁王の挙兵時には大番役として在していた。吾妻鏡によると収束後関東に下り、共に大番役を終えたばかりの三浦義澄伊豆国源頼朝の下に参上している。この際に以仁王の挙兵の詳細を報告し、頼朝に対して何らかの決断を促した、もしくは既に決起を決心していた頼朝から何らかの指示を受け取ったと考えられている〔三浦の次郎義澄・千葉の六郎大夫胤頼等北條に参向す。日来京都に祇侯す。去る月中旬の比、下向せんと欲するの刻、宇治合戦等の事に依って、 官兵の為抑留せらるの間、今に遅引す。数月の恐鬱を散ぜんが為参入するの由これを申す。日来番役に依って在京する所なり。武衛件の両人に対面し給う。御閑談刻を移す。他人これを聞かず。…(『吾妻鏡』治承4年6月27日条)〕。
下総国に戻り、父常胤に対して安房国へ逃れた頼朝への加勢と下総目代を誅することを主張、常胤もこれを認めて頼朝の軍に合流する事を決定し、胤頼は千葉荘を後にするに際し長兄胤正の子成胤と共に下総目代を襲い攻め滅ぼした〔安房国を出て、上総国に赴かしめ給う。所從の精兵三百餘騎に及ぶ。而るに廣常、軍士等を聚めるの間、猶遅参すと。今日、千葉介常胤子息親類を相具し、源家に參らんと欲す。爰に東六郎大夫胤頼父に談りて云く、當國目代は平家の方人なり。吾等一族悉く境を出て源家に參らば、定めて凶害を插むべし。先ずこれを誅すべきかと。…(『吾妻鏡』治承4年9月13日条)〕。そのため下総国千田荘領家皇嘉門院判官代藤原親政が千余騎を率いて千葉荘に侵入、千葉荘に戻った成胤と合戦になり、わずか七騎で迎え撃った成胤が絶体絶命のなか遂に親政を生虜にしたと言う〔下総国千田荘領家判官代親政は、刑部卿忠盛朝臣の聟なり。平相国禪閤に其の志を通ずるの間、目代誅せらるの由を聞き、軍兵を率い常胤を襲わんと欲す。之に依って、常胤孫子小太郎成胤相戰う。遂に親政を生虜らん。…(『吾妻鏡』治承4年9月14日条)〕。平家の総帥清盛の姉婿親政を生虜にしたことで様子見していた上総広常など坂東武士団がこぞって頼朝の軍に合流、関東における頼朝の軍事力は平家方の勢力を大きく上回る事になった。
この後、頼朝は治承・寿永の乱を制し、下総国を掌握した常胤より東荘を相続され、以降胤頼の子孫は東氏を名乗る事になる。
その他『吾妻鏡』には一ノ谷の戦い奥州合戦などに名を残す。また建久元年(1190年)の頼朝の上洛にも随員として記されている。以降記録から胤頼の名は消え、子、重胤家督を譲ったと考えられている。
文治2年(1186年)の正月、頼朝が鶴岡八幡宮に参拝した際に、宮の庭上に着座した供奉人の中で胤頼が父である常胤のほぼ真正面の位置に座したことが、子が父に対して公の場で正対して座すると言う同格の振舞を行ったとして秩序の逸脱であるとして、直後の埦飯の席で御家人の間で問題視された。これに対して頼朝は、大番役の際に胤頼が叙された位は貴族とされ昇殿を許されるとされる従五位下であり、これは父常胤の位の正六位上とは歴然とした違いがある。また上西門院仕えることでは同じであり、「官位は朝廷より賜った物であるので、これに従う事」として、御家人の座次は父子の秩序よりも官位の秩序を優先させる方針を説明した〔御奉幣の事終わり還御の後、椀飯有り。抑も今日御神拜之間、供奉人等、廟庭の左右に相分かれ著座す。而るに胤頼父常胤に相對して着す。聊か座の下方に寄ると、人甘心せず。是れ仰せに依って此の如しと。常胤は父たりと雖も六位なり。胤頼は子たりと雖も五品なり。官位は君の授く所なり。何ぞ賞せざるやの由仰せ下さると。この胤頼は、平家天下の権を執る時、京都に候すと雖も、更にその榮貴に諂わず。遠藤左近將監持遠の擧に依って、上西門院に仕う。御給を被り從五位下に叙す。また持遠の好に就いて、神護寺の文學上人を以て師檀と為す。文學伊豆国に在る時同心せしめ、二品に示し申すの旨有り。遂に義兵を擧げ給うの比、常胤に勸め最前に参向せしむ。兄弟六人の中殊に大功を抽んずる者なり。…(『吾妻鏡』文治2年正月3日条)〕〔上杉和彦「鎌倉幕府の座次に関する覚書」(初出:『日本歴史』648号(2002年)/所収:上杉『鎌倉幕府統治構造の研究』(校倉書房、2015年) ISBN 978-4-7517-4600-4)〕。胤頼が父より高位を贈られた理由として、和歌などの文芸に通じていたともされ、後に東氏は歌道において古今伝授を行いうる地位を確立するが、その源流がここに見て取れる。
その後、晩年には出家して法然上人の弟子になった胤頼は法阿弥陀仏(法阿)と称していた。嘉禄3年(1227年)に発生した嘉禄の法難の際には、延暦寺僧兵から法然の遺骸を守るために、蓮生(宇都宮頼綱)、信生(塩谷朝業)兄弟、道弁(渋谷七郎)などの出家者や六波羅探題の武士団らとともに、東山法然廟所から二尊院までの遺骸移送の護衛にあたった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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