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平忠盛 : ミニ英和和英辞書
平忠盛[たいらのただもり]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [たいら, ひら]
 【名詞】 1. the broad 2. the flat 3. palm

平忠盛 : ウィキペディア日本語版
平忠盛[たいらのただもり]

平 忠盛(たいら の ただもり)は、平安時代末期の武将平清盛の父。烏帽子親は義兄の源義忠〔「」の字は義忠から与えられた偏諱と考えられる。〕。
伊勢平氏で初めて昇殿を許された。北面武士・追討使として白河院政・鳥羽院政の武力的支柱の役割を果たすとともに、諸国の受領を歴任し、日宋貿易にも従事して莫大な富を蓄えた。その武力と財力は次代に引き継がれ、後の平氏政権の礎となった。歌人としても知られ、家集『平忠盛集』がある。
== 生涯 ==

=== 白河院政期 ===
父の正盛は白河法皇北面武士として仕え、源義親の追討で武名を上げた。一方で源義忠に息女を娶わせるなど、先行の軍事貴族である河内源氏とも連携を図り、義忠は忠盛の烏帽子親となっている。義忠死後に河内源氏が衰退するのと入れ替わるように、伊勢平氏は源氏の与党を従わせつつ勢力を伸ばしていった。
天仁元年(1108年)、忠盛は13歳で左衛門少尉となり、天永2年(1111年)には検非違使を兼帯して、京の治安維持に従事した。天永4年(1113年)には盗賊の夏焼大夫を追捕した功で従五位下に叙される(『長秋記』3月14日条)。同年の永久の強訴では父とともに宇治に出動して興福寺の大衆の入京を阻止している。永久2年(1114年)、白河院の寵妃・祇園女御に鮮鳥を献上し、父に続いてこの女御に仕えた。その後、検非違使の任を離れ伯耆守となり、右馬権頭も兼任する。
永久5年(1117年)、鳥羽天皇に入内した藤原璋子(待賢門院)の政所別当となる。他の別当には藤原長実藤原顕隆など白河法皇の有力な近臣が名を連ねており、法皇の信頼の厚さがうかがえる。元永2年(1119年)11月14日の賀茂臨時祭では新舞人に選ばれ、その華やかな装いは「道に光花を施し、万事耳目を驚かす。誠に希代の勝事なり」と周囲を驚嘆させた(『中右記』11月19日条)。保安元年(1120年)に越前守に転任するが、在任中に越前国敦賀郡で殺人事件が起こり、犯人の日吉社神人を逮捕して検非違使に引き渡す途中で、延暦寺悪僧が犯人の身柄を奪取するという事件が発生する。朝廷が悪僧を捕らえたことで延暦寺の強訴に発展するが、白河法皇は忠盛を擁護した。この頃に院の昇殿を許され、藤原宗子(池禅尼)を正室とする。
大治2年(1127年)、従四位下に叙され、備前守となる。さらに左馬権頭を兼任し、院の牛馬の管理を行う院御厩司となった。馬寮と院御厩は職務内容が共通するため兼任は自然なことであったが、戦闘における騎馬の重要性の観点からすれば、軍事貴族である忠盛にとっては大いに意義のあるものだった。大治4年(1129年)3月、忠盛は山陽道南海道海賊追討使に抜擢される(『朝野群載』巻11)。これは、正式な宣旨ではなく院宣検非違使別当宣(別当は待賢門院の兄・三条実行)によるものであり、白河法皇の強引な引き立てだったと考えられる。それから間もなくの7月7日、白河法皇が77歳で崩御した。忠盛は法皇の葬儀で他の近臣とともに入棺役を務め、山作所(火葬場)の設営も担当した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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