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本間千代子 : ミニ英和和英辞書
本間千代子[ほんま ちよこ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ほん, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation 
: [けん, ま]
 【名詞】 1. space 2. room 3. time 4. pause 
: [せん ち, ち]
 【名詞】 1. thousand 2. many
千代 : [ちよ]
 【名詞】 1. (1) thousand years 2. (2) very long period 3. forever
: [よ, しろ]
 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation 
: [こ, ね]
 (n) first sign of Chinese zodiac (The Rat, 11p.m.-1a.m., north, November)

本間千代子 : ウィキペディア日本語版
本間千代子[ほんま ちよこ]

本間 千代子(ほんま ちよこ、1945年1月29日 - )は、日本歌手女優。本名同じ。長野県上伊那郡伊那町(現・伊那市)生まれ、東京都杉並区育ち〔『日本映画人名事典・女優編』キネマ旬報社〕 。音楽プロデューサーひのきしんじ
== 来歴 ==
父は日本銀行勤務で二男二女の次女として、戦時疎開先の長野県上伊那郡伊那町(現・伊那市)で生まれる。終戦後の同年10月に東京都杉並区西荻窪に移り、近くの「かしの実幼稚園」に入る。そのころから歌に興味を持ち、NHKうたのおばさん」であった安西愛子(後参議院議員)から童謡を習う。
杉並区立高井戸第四小学校に通うようになってからは「みすず児童合唱団」で歌の勉強を続ける。先生はやがて姉の夫となる当時高校3年生であった冨田勲(後にシンセサイザーアーティストとして著名)であった。その後ポリドール児童合唱団に所属し、昭和26年(1951年)1月にはNHKから『けんけん小雉』『お菓子の汽車』が放送される(同合唱団には倍賞千恵子がいて、その後も友好を保つ)。
小学校4年のとき杉並の杉並区立松庵小学校に転校、この頃から神奈川県横浜市鶴見区にあった「ひばり児童合唱団」に往復4時間かけて通うようになる(同合唱団には松島トモ子がいて,その後も友好を保つ)。合唱団団長の皆川和子に認められ、洗足池近くの氏の家で個人レッスンを受けるようになり(この頃に吉永小百合も個人レッスンを受けており、その後も友好を保つ)、オペレッタ『みにくいあひるの子』に主演し松島トモ子主演『魔法の笛』にも出演する。この頃コロムビア専属の童謡歌手となる(コロムビアでは30数曲の童謡を吹き込む)。
昭和32年(1957年)、姉明子と同じ三鷹台にある立教女学院中等部に入学。東映映画の音楽を担当していた義兄の冨田勲の勧めで撮影所に出入りするようになり山崎所長の知遇を得て、昭和33年(1958年)8月東映児童研修所の第1期生となる。
すぐに堀内甲監督の児童向け映画『六人姉妹』に出演、この映画は翌年教育映画最優秀作品賞を受賞、同時に東映大川社長から顕彰される(教育映画は『くつした』『空をかける友情』など7本に出演)。研修所を卒業し東映児童劇団に進み、昭和36年(1961年)11月にクランクインした高倉健主演のアクション映画でのちにシリーズ化される『恋と太陽とギャング』に千葉真一の妹役・留美子で本格デビュー。その4か月後『歌う明星・青春がいっぱい』に渥美清の妹役・千代子として出演し、清純派としての映画スターの地位を確立する。昭和38年(1963年)9月タクシー乗車中に交通事故に合い額を切るなどで10日間入院するがその後復帰。
昭和38年(1963年)頃から清楚な容姿を生かして青春映画に出演。また透き通る清純な声で多くの青春歌謡を歌った。愛称は「チョコ〔「チコと一緒に」という主演ドラマは当初「チョコと一緒に」で企画されたが、番組のスポンサーだったヤクルトが反対したという。当時本間が不二家のチョコレートのCMに出演していたため、不二家を利すると考えられたのだろう。また、「“チョコっと一緒に”と聞えてイヤ」という本間自身の要望もあったとか。〕」。ビデオが普及する少し前だったため残された映像は少なく、幻の青春スターでもある。代表曲は『若草の丘』『愛しあうには早すぎて』『白いボール』などで、LP3枚、EP20数枚のレコードを出したが、今も人気が高く取引されている。代表主演青春映画は『君たちがいて僕がいた』『十七才のこの胸に』『あの雲に歌おう』など、一部はDVDで市販されている。
昭和39年(1964年)には日本映画製作者協会の第九回エランドール賞新人賞を市川染五郎松原智恵子などと共に受ける。この頃人気は過熱し,爆破狂草加次郎を名乗るものから脅迫文が届き警察沙汰になって世間を驚かせた(草加次郎事件は未解決)。当時雑誌の人気投票で吉永小百合を抜いて1位になることもあり〔雑誌『明星』、『近代映画』の「映画スター人気投票・女優部門」では、1964年(昭和39年)度・1965年(昭和40年度)と2年連続で吉永小百合に次いで2位にランクインしていた。中間発表の段階では、吉永を押さえて1位になるケースもあった。(当時の『明星』、『近代映画』の記事による)〕、ブロマイド売上げでも高位をキープしていた〔1964年(昭和39年)の女性タレントのプロマイド売上枚数は、月間ベースでは吉永小百合を抜いて1位になる事もあったが、年間ベースでは、やはり吉永が1位、本間は2位であった。翌1965年(昭和40年)、1966年(昭和41年)にもベストテンに名を連ねていたが、1967年(昭和42年)以降は上位ランキングから姿を消している。(マルベル堂資料、雑誌「近代映画」の記事による)〕。
昭和40年(1965年)度のNHKの大河ドラマ太閤記』で豊臣五奉行の一人浅野長政の妻ややとして出演する。この頃を中心に多くのレコードを吹き込み、青春映画に出演する(“主な出演”を参照の事)。
同年5月22日、急性盲腸炎により入院、手術、月末には退院するが再度入院し翌6月11日に退院の上、翌日には活動再開した〔日劇での舞台「チコとボーイフレンド」のリハーサルで彼女の初のワンマンショーである。牟田悌三鈴木やすし等と共演。(1965年6月20日付朝日新聞芸能面)〕。
昭和41年(1966年)、歌手の守屋浩と結婚するが、後に離婚。
昭和51年(1976年)、ひばり児童合唱団時代からの幼なじみであったひのきしんじと再婚して芸能界を引退している。また「あたらしかずよ」の名義で作詞を手掛け、その作品『熱愛』(歌・五木ひろし)は、昭和53年(1978年)の日本作詞大賞を受賞。
学生時代から石原裕次郎の熱烈なファンとしても知られ、子育てが一段落し48歳になった平成5年(1993年)に裕次郎の母校に憧れ、慶應義塾大学文学部(通信教育課程)に入学。6年かけて、平成11年(1999年)3月に卒業を果たしている。そして、平成20年(2008年)、日本大学大学院博士課程前期課程に入学、人間科学を専攻。
全国の地域FM局(コミュニティFM)ネットで放送されている「おはようサタデー~思いのままに~ミュージックサンキュー~」(毎週土曜日7:00~9:00)のDJを、夫のひのきしんじとレギュラーで担当している。
2010年9月17日に日本コロムビアから、「青春スター ~ときめきのヒロイン~ 本間千代子・高石かつ枝・高田美和」 が発売された。本間千代子の作品は41曲〔本間自身の言葉によれば、今回収録分が彼女のリリースした作品の全てではないという。(FMラジオ2010年10月16日放送分「おはようサタデー~」にて語る。)〕が収録されており、彼女初の本格CD-BOXといえる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「本間千代子」の詳細全文を読む




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