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本間北曜 : ミニ英和和英辞書
本間北曜[ほんま ほくよう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ほん, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation 
: [けん, ま]
 【名詞】 1. space 2. room 3. time 4. pause 
: [きた, ほく]
 (n) north

本間北曜 : ウィキペディア日本語版
本間北曜[ほんま ほくよう]

本間 北曜(ほんま ほくよう、文政5年(1822年) - 慶応4年7月19日1868年9月5日〉)とは、江戸時代後期の浮世絵師、蘭学者。
== 来歴 ==
葛飾北斎の晩年の門人。幼名は規矩治(きくじ)、名は郡兵衛、後に光喜。北曜と号す。字は有得。出羽国(現・山形県)酒田の廻船問屋に生まれ、本間家の分家・本間国光(信四郎)の次男であった。幼少より学問を好み、5歳の頃から藩の医師・小松周輔より四書五経の訓読を受け漢籍に親しんだ。天保13年(1842年)、21歳の時、兄・光恕から日頃の放蕩を叱咤され、江戸へ出て根岸にある本間光憲邸に寄宿したが、厳格な兄の帰宅命令で一旦帰郷、出羽国矢島の小番郡八の養子になり、郡兵衛と名乗っている。同年、矢島領主・生駒親道とともに改めて江戸に上り、蘭医の坪井信道平野元慶に師事した。しかし、養家との仲がうまく行かず翌天保14年(1843年)に一時帰郷していたが、その後養家を出奔し、神田弁慶橋の島南甫宅に居住する。この頃、葛飾北斎の門人となり北耀と号した。さらに、江戸の根付師・初代山口(竹陽斎)友親(1800年-1873年)に彫刻を学んでいる。それから5年ほど江戸に滞在していた。
弘化4年(1847年)、同郷で8歳年下の清河八郎が江戸へ上ったことに影響されたのか、北斎が没した嘉永2年(1849年)以降は芸術よりも国事に興味を抱くようになり、清河八郎やジョン万次郎榎本武揚らと交流を始める。翌嘉永元年(1848年)5月22日、北曜は酒田を出発し、江戸・京都・広島・下関を経て長崎へと旅をし、その時の模様を『羽州飽海大泉荘北曜 西肥長崎行日記』(鶴岡市郷土資料館所蔵)に書き記している。その日記によると、北曜は6月4日には江戸に着き、翌5日に浅草寺に参拝した後、浅草の仮宅にて北斎に面会しており、さらに同8日にも北斎を訪ねている。この時、北斎から、北曜が長崎へ行った際にはキタコ(鱓)などの魚を写生してくるよう依頼され、「鬼図」を渡された。その後、8月2日に長崎に到着、11月26日に鎌倉に戻るまでの行動が細かく記述されている。また、長崎に滞在した時には穎川藤三郎らに会っている。
嘉永6年(1853年)6月、ペリーらが来日すると、浦賀で「黒船図」を描いた。この「黒船図」には北曜自身による書き込みがあり、本図は6月3日に北アメリカ、ワシントン国の軍艦が浦賀に入港したのを同月5日に北曜自ら浦賀に赴いて写生した図を元にして、江戸で再び写したものであるという。当時、黒船と呼ばれた軍艦は江戸庶民にも圧倒的な話題となり、皆がその姿を見たがり、洋学を志す北曜に黒船図の制作注文が殺到したと思われる。2年後の安政2年(1855年)には洋書の翻訳に従事し、勝海舟から誘われて、大坂・専称寺にある勝塾の蘭学講師に就任している。さらに北曜は、長崎で海軍伝習所の通訳になり、オランダ人宣教師フルベッキから英語を学んで、文久2年(1862年)にはパリロンドンロシアニューヨークといった欧米各国と清国を約5ヶ月も外遊し、西洋諸国における経済発達及び、その経済侵略が東洋へ向けられていることを目の当たりにした。なお、この時に撮影したと見られる肖像写真が残っている。彼は、このままでは日本は外国資本にやられてしまうが、それを防ぐには国家としての独立・統一は当然であるが、株式会社を創って巨大産業を興す必要があると考えた。丁度この頃、薩摩藩主・島津斉彬の家老・小松清廉が、グラバーに英語教師を求めたことから北曜が推薦され、鹿児島開成所の英語教師になっている。そのような中で、西郷隆盛らとも交流をもち、早速「薩州商社草案」という定款を作り、小松清廉に上書した。この草案は北曜の生家である本間恒輔家に残されており、彼が日本で最初に株式会社を考えた人物であるということを示している。開発的な帯刀は、北曜に大いに共鳴し、大坂に設けてあった薩摩交易の拠点「大和交易方」を拡張し、「大和方コンパニー」(別名・「薩州商社」)という株式会社を組織することとした。そして北曜は、この「薩州商社」に各藩の参加及び富豪にも一株5000両の出資を呼びかけて各地を奔走している。

慶応3年(1867年)、北曜は「薩州商社」に本間家の参加を求めに酒田に帰ってきて了解を取り付けた。この時、日新除魔10枚、画稿10数枚、北斎から北曜あての手紙、「薩州商社発端」草案及び、北斎の「鬼図」などを酒田に持ち帰った。彼は本間家から資本を拠出させるだけでなく、酒田港を東北の拠点にしようと計画していたようであったが、戊辰戦争の直前という緊迫した状況であった庄内藩では、佐幕派による奥羽越列藩同盟が締結されつつあり、薩摩帰りの北曜は薩摩藩のスパイだと疑われ、外出を禁止させられ、さらに鵜渡川川原の足軽目付に厳しく監視されてしまう。大きな計画を抱きながら、ごく近所の本間家へさえ行くことができず悶々としていた北曜は、ある夜、遂に堪りかねて泥酔したうえ、薩摩藩より拝領された丸に十字の紋(島津家紋)がついた紋付羽織を着て外出する。そのため、鶴岡の伯父・池田六兵衛邸に幽閉されてしまう。翌慶応4年(1868年)の7月19日、北曜を診察するために来た藩医が置いていった薬を服用したところ急死した。一般的に、これは毒殺であったといわれている。享年47。墓所は、酒田市の浄福寺である。

北曜は、浮世絵師としては、それほど目立った活躍はなかったが、師・北斎には、随分と可愛がられていたようで、北斎最晩年である嘉永元年(1848年)6月作画の「鬼図」(佐野美術館所蔵)の画中に、「嘉永元年戊申年六月八日 門人北曜子に於くる 齢八十九歳画狂老人卍筆」と、北曜の名前を入れられ、贈られている。また、「北曜手控帖」という北曜の画稿をまとめたものが残されており、彼の画技の高さを看取できる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「本間北曜」の詳細全文を読む




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