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木下杢太郎 : ミニ英和和英辞書
木下杢太郎[きのした もくたろう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [き]
 【名詞】 1. tree 2. wood 3. timber 
: [した, もと]
 (adv) under (esp. influence or guidance)

木下杢太郎 : ウィキペディア日本語版
木下杢太郎[きのした もくたろう]

木下 杢太郎(きのした もくたろう、1885年明治18年)8月1日 - 1945年昭和20年)10月15日。本名:太田正雄)は、皮膚科医学者、詩人劇作家翻訳家美術史切支丹史研究家。大学医学部の教授を歴任し、また、南蛮情緒的、切支丹趣味、耽美享楽的など言われるきらびやかな詩や戯曲を残した。堀花村(ほりかそん)、地下一尺生、葱南(そうなん)、などの筆名も用いた。
== 生涯 ==
1885年明治18年)、静岡県賀茂郡湯川村(現・伊東市湯川)に、父・惣五郎、母・いとの末子として生まれた。兄に太田圓三。動物学者の太田嘉四夫(北海道大学教授)は甥〔阿部永. 太田嘉四夫先生を悼む. 日本生態学会誌, 44(2), 269, 1994. 〕。
家業は「米惣」という雑貨問屋であった。その生家は現在、木下杢太郎記念館 として保存されている。小学校は、東浦尋常小学校とそれが統合された伊東尋常高等小学校(現・伊東市立西小学校 )とであった。
1898年(明治31年)、上京して獨逸学協会学校(現・獨協中学校・高等学校)へ入った。津田左右吉が歴史を教えた。文芸雑誌を読み、絵画にも親しんだ。文筆を習作し、同窓の長田秀雄蒟蒻版の雑誌『渓流』を編んで回覧した。
1903年(明治36年)、第一高等学校の、ドイツ語主体で医学部希望の生徒が多い第3部へ入学し、転科を望んだ時期もあったが、1906年、東京帝国大学医科大学へ進んだ。
1907年(明治40年)、与謝野鉄幹の新詩社の機関誌、『明星』の同人となり、短編『蒸氣のにほひ』を発表した。夏に、鉄幹・北原白秋吉井勇平野万里九州北部の南蛮遺跡を探訪し、新聞に連載された紀行文『五足の靴』〔五人づれ著:『五足の靴』、岩波文庫(2007)ISBN 978-4003117712〕で、南蛮情緒の濃い、切支丹趣味の耽美享楽的な詩を詠んだ。
1908年(明治41年)、年初に新詩社を脱退し、暮に筆頭発起人として、白秋、勇、および、美術雑誌『方寸』同人の石井柏亭山本鼎・森田恒友・倉田白羊らと、『パンの会』を立ち上げ、美術家たちと詩人たちがそこで若さを爆発させた〔パンの会の回想 (青空文庫)〕。3年半頻繁に催されたこの集いには、鉄幹、敏、永井荷風荻原碌山小山内薫高村光太郎武者小路実篤谷崎潤一郎岡本一平らも顔を出した。9月、上田敏の洋行壮行会で森鴎外とはじめて面語してから、ときおり鴎外を訪ねたものの、「先生から聴かうと欲した所は万事をすてて文芸の事に従へといふ言葉であった。而して先生は一度もそれらしい言葉をば言はれなかった」〔新田(1997)、408-409頁。〕。なお後年、鴎外宅で開かれた観潮楼歌会に出席したほか、医者としての杢太郎が強い倫理性、人道的な色彩を帯びてくるのは鴎外観の深まりとほぼ時期が同じであり、岩波講座『日本文学』(1932年昭和7年))に載せられた「森鴎外」の執筆や『鴎外全集』(岩波書店、1936年(昭和11年) - 1939年(昭和14年))の主編集者を務める等、鴎外研究にも大きな足跡を残した〔新田(1997)、426-427頁。〕。
1909年(明治42年)、石川啄木創刊の『』の編集を手伝い、白秋・長田秀雄と季刊誌『屋上庭園』を創刊し、昴に切支丹ものの『南蛮寺門前』を載せるなどした。
1911年(明治44年)、東大医学部を卒業し、翌年衛生学教室を経て、鴎外の勧めに従い皮膚科の土肥慶蔵教授についた。昴へ『和泉屋染物店』を載せた。その頃から癩病研究を志した。
1916年大正5年)から1920年(大正9年)まで、奉天(現、瀋陽)の満鉄付属地の南満医学堂教授兼奉天医院皮膚科部長を勤めた。その時期に河合正子と結婚し、また、中国朝鮮の美術を探訪した。正子との間に、のちのち二男三女を得た。
1921年(大正10年)から1924年(大正13年)まで米欧に留学し、主にフランスソルボンヌ・サン・ルイ病院(Hôpital Saint-Louis)・リヨン大学で研究した。かたわら、語学を学び、各国に旅行し、南蛮・切支丹の文献を集めた。その間の1922年(大正11年)、医学博士号を得た。
1924年(大正13年)、帰国して、愛知県立医学専門学校(現・名古屋大学医学部)教授となり、1926年(大正15年)、東北大学医学部教授に転じて、皮膚病黴毒学講座を担当した。引き続き、医真菌学の研究を行い、1930年(昭和5年)、日本ミコロギー学会を設立し国内外の専門家との交流に勤めた。
1934年(昭和9年)、皮膚科学会総会で『中毒疹』を報告した。
1937年(昭和12年)、東京帝国大学医学部教授となって皮膚科学講座を担当した。伝染病研究所(現・東京大学医科学研究所)の研究員をも兼ね、癩病の研究を進め次第に世界的権威と目されるようになった。また、思想弾圧を受けた学生たちに心のより所を与えるため、「鴎外の会」を作って指導した〔新田(1997)、426頁。〕。
1938年(昭和13年)、『眼上顎部青色母斑』を独立疾患として発表した。『太田母斑』とも呼ばれている。
1941年(昭和16年)、日仏交換教授として、当時日本軍が強行進駐していたフランス領インドシナへ出張し、レジョン・ドヌール勲章を受けた。
1943年(昭和18年)、『百花譜』と自ら呼んだ植物写生を始め、872枚を描いた。1944年(昭和19年)、上海南京の医学会に出席した。
1945年(昭和20年)、4月に『わらい蕈』を、5月に『すかんぽ』を、『文芸』誌に掲載した。6月より腹部の変調を訴え、10月15日幽門の癌のため、東大病院柿沼内科で没した。『斐文院指学葱南居士』。墓は多磨霊園にある。
妻・正子は、太田教授の教え子に心筋梗塞の看護を受けたのち、1980年(昭和55年)に亡くなった。
裁判官弁護士斎藤直一、社会運動家で静岡県議をつとめた太田慶太郎は甥にあたる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「木下杢太郎」の詳細全文を読む




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