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上田敏 : ミニ英和和英辞書
上田敏[うえだ びん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [じょう]
 (n,pref,suf) 1. first volume 2. superior quality 3. governmental 4. imperial 5. top 6. best 7. high class 8. going up 9. presenting 10. showing 1 1. aboard a ship or vehicle 12. from the standpoint of 13. as a matter of (fact) 13. superior
上田 : [うえた, じょうでん]
 【名詞】 1. high rice field 2. very fertile rice field 
: [た]
 【名詞】 1. rice field 

上田敏 : ウィキペディア日本語版
上田敏[うえだ びん]

上田 敏(うえだ びん、1874年明治7年)10月30日 - 1916年大正5年)7月9日)は、文学者、評論家、啓蒙家、翻訳家。多くの外国語に通じて名訳を残した。で、「上田柳村」とも呼ばれる。「山のあなたの空遠く 『幸』(さひはひ)住むと人の言ふ」(カール・ブッセの「山のあなた」)や、「秋の日の ヴィオロンの ためいきの 身にしみて ひたぶるに うら悲し」(ポール・ヴェルレーヌの「落葉」、一般には「秋の歌」)などの訳詞は、今なお、広く知られている。
また、日本に初めてジョリス=カルル・ユイスマンスを紹介したことでも知られる。
==略歴==
幕臣上田絅二(けいじ)の長男として1874年(明治7年)、東京築地に生まれる。絅二は昌平黌教授をつとめた儒学者の乙骨耐軒の次男で〔服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)52頁〕、英学者で沼津兵学校教授の乙骨太郎乙は伯父(耐軒の長男)〔デジタル版 日本人名大辞典+Plus 〕、その子で音楽評論家の乙骨三郎は従兄弟に当たる。静岡尋常中学、私立東京英語学校、および第一高等学校を経て、1897年(明治30年)東京帝国大学英文科卒。講師小泉八雲から「英語を以て自己を表現する事のできる一万人中唯一人の日本人学生である」とその才質を絶賛されたという。卒業後、東京高等師範学校教授、東大講師(八雲の後任)。
第一高等学校在学中、田口卯吉邸に寄寓しており、平田禿木を通じて〔北村透谷島崎藤村らの『文学界』同人となり、東大在学中、第一期『帝国文学』の創刊(1895年明治28年1月))にかかわる。
1902年(明治35年)6月、主宰誌の『芸苑』と廃刊になっていた森鴎外の主宰誌『めざまし草』とを合併し、『芸文』を創刊(その後、出版社とのトラブルで廃刊したものの、10月に後身の『万年艸』を創刊)。その後、鴎外とは家族ぐるみで交際した。
1908年(明治41年)欧州へ留学。帰国後、京都帝国大学教授となる。この頃、「マント事件」によって一高を退学し京都帝大に進学していた菊池寛が上田に師事した。1910年(明治43年)2月15日、慶應義塾大学文学科顧問に就任。
1916年(大正5年)、腎臓疾患で東京の自宅で急逝。享年41。
つぎの「主な作品」の項に見るとおり、ヨーロッパの当時の文芸思潮を熱心に紹介し、後進を啓発した。たとえば永井荷風は、「上田先生などの著述の感化で、西欧の風物文物へのあこがれを持った」由を綴っている(書かでもの記)。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「上田敏」の詳細全文を読む




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