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御一家 : ミニ英和和英辞書
御一家[ごいっか]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ご, お, おん, み]
  1. (pref) honourable 2. honorable 
: [いち]
  1. (num) one 
一家 : [いっけ]
 【名詞】 1. a house 2. a home 3. a family 4. a household 5. one's family 6. one's folks 7. a style
: [いえ, け]
  1. (suf) house 2. family 

御一家 : ウィキペディア日本語版
御一家[ごいっか]
御一家(ごいっか)とは、足利将軍家の同族の中でも征夷大将軍継承権を有し、室町幕府においては管領と同格もしくは上の家格として扱われた吉良氏渋川氏石橋氏のこと。特に吉良氏は御一家の中でも筆頭に位置づけられて、管領よりも上位に位置づけられていた〔なお、石橋・渋川両氏間の家格の上下は確定されなかった。〕。
== 概要 ==
御一家は京都の室町幕府および鎌倉鎌倉府において別個に組織されていたが、この3氏をもって「御一家衆」と称した(ただし、関東地方に根拠を持つ石橋氏は不在のため、実質は2氏)。他にも石塔氏一色氏、あるいは関東地方の有力武家である岩松氏山内上杉氏後北条氏を御一家に加える文献もあるものの、前者は実際に待遇を受けたことを示す証拠がなく、後者は後から御一家と同等の待遇を受けたもので、書札礼などにおいては依然として格差を付けられていた。
吉良・渋川・石橋の3氏は足利義氏の子孫であり、吉良氏の祖は義氏の子で惣領を継いだ足利泰氏の庶兄とされる義継長氏兄弟、石橋氏の祖は泰氏の子で次代の足利頼氏の庶兄にあたる足利家氏、渋川氏の祖も同じく頼氏の庶兄の兼氏である(いずれも『見聞諸家紋』)。いずれも、足利氏の庶子家の中でも「惣領の庶兄」を祖先とする家柄であり、鎌倉時代を通じて「足利」を名乗ることが認められていた家であった。足利氏の惣領であった足利尊氏が征夷大将軍に任じられて武家の棟梁として室町幕府を開いて以降、これらの家々が「足利」の号を名乗るのを規制されるようになる。
この3氏が御一家として特別な地位を与えられるようになったのは、永享年間(1430年代)であったと推定されている〔文献的な初出は『師郷記』康正2年5月28日条である。〕。応永32年(1425年)に征夷大将軍であった足利義量が死去し、数年にわたって将軍職が空位の時期が続いた。最終的には僧侶となっていた義円(足利義教)還俗の後に将軍職を継承することになるが、足利将軍家の断絶の危機が真剣にささやかれた〔『看聞日記』応永35年2月28日条には人々が「御代可尽」「将軍代欲尽、諸神已捨給了」と足利将軍家の断絶を噂し、武衛家(斯波氏宗家)が将軍を継ぐとの噂も流れたことも記されている。〕。この事態を受けて、幕政上の具体的な役割〔かつて吉良氏は引付頭人、渋川氏は九州探題を務めていた経歴があったが、永享期には幕政上の役職には就いていなかった。〕はなくても、足利将軍家が万が一断絶した際にこれを継承する血統が必要とされた。それが「御一家」成立の理由になったとみられている。
一方、「御一家」の成立によって、鎌倉公方家斯波氏が足利将軍家の継承から排除されることになった。前者は足利尊氏の血を引く足利将軍家の分家の1つで、事あるごとに足利将軍家の継承権を主張してきた存在であり、後者は石橋氏と同じ足利家氏を祖に持つ庶子家の中でも最有力な家であるとともに室町幕府では管領を務める有力守護大名であった〔斯波氏は家氏の時代から御家人身分を認められ、室町幕府成立後は極官は兵衛督または衛門督、他氏には禁じられた「足利」号を応永30年前後まで名乗るなど、他の庶子家よりも上位に位置づけられていた。〕。斯波氏は「御一家」の基準に適合していたものの従来通りの管領家の地位に置かれたことにより「三職(管領)より格上」とされた吉良氏の下の家格へと実質的に落とされる結果となった。なお、鎌倉府の「御一家」についての経緯については不詳であるが、京都における「御一家」成立で将軍職継承から遠ざけられた鎌倉公方が、京都の将軍に対抗する権威づけのために設置したとみられている。
ちなみに、吉良氏の庶流であった今川氏には「室町殿の御子孫たへなは吉良につかせ、吉良もたへは今川につかせよ」(『今川記』)という言葉が存在していたが、これは今川氏が自分たちの宗家筋にあたる御一家・吉良氏の継承権に対して強い関心を抱いていたことを示している〔今川氏宗家(駿河今川氏)から吉良氏継承の事例は生じなかったが、関東吉良氏は今川氏庶流の堀越氏(遠江今川氏)から養子(吉良氏朝)を迎えている。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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