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尾竹越堂 : ミニ英和和英辞書
尾竹越堂[おたけ えつどう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [お]
 【名詞】 1. tail 2. ridge 
: [たけ]
 【名詞】 1. bamboo 2. middle (of a three-tier ranking system) 
: [どう]
  1. (n,n-suf,n-pref) (1) temple 2. shrine 3. hall 4. (2) prefix to building meaning "magnificent" 

尾竹越堂 : ウィキペディア日本語版
尾竹越堂[おたけ えつどう]
尾竹 越堂(おたけ えつどう、慶応4年1月28日1868年2月21日〉 - 昭和6年〈1931年12月3日)とは、明治から昭和期にかけての浮世絵師日本画家
== 経歴 ==

画号を国一、国弌、観月(大阪時代)とも称す。紺屋を営む尾竹倉松の長男として慶応4年1月28日(1868年2月21日)、越後国白根町(現在の新潟県新潟市)に生まれる。本名熊太郎。幼少のとき東京に出て四代目歌川国政浮世絵を学んだと伝わる。明治18年(1885年)ごろから国雪と号して『新潟新聞』に挿絵を描き、明治22年(1889年)に富山に移ると、売薬版画新聞挿絵、絵馬、押絵の下絵などを描いた。明治23年(1890年)に富山越前町に住み、後に総曲輪町、山王町に移った。売薬版画の役者絵歴史絵を多数描いたほか、明治23年9月23日より富山日報における小説挿絵を担当、明治32年(1899年)まで描いていた。
明治32年に富山を離れ、大阪を経て後に再び東京(下谷区下根岸)へ移る。明治40年(1907年)、伊藤博文の命名により越堂と号する。引き札などの下絵制作に携わる。大阪美術会委員、大阪図案意匠絵画会図案部審査員などをつとめる。明治27年(1894年)富山共進会で銅賞、明治33年(1900年)大阪画会で銀賞を受賞。また日本美術院の新画風を学び、巽画会にも会員として加わった。明治44年(1911年)、第5回文展に「韓信」が入選。大正2年(1913年)1月より本格的に東京に居を移すと、兄弟3名で八華会を結成。根岸に住み、実弟竹坡国観らとともに尾竹三兄弟として活躍した。文展でも大正3年(1914年)第8回展に「さつき頃」(二曲一双)、大正4年(1915年)第9回展に「湖」(六曲一双)、大正5年(1916年)第10回展に「漁樵問答」(六曲一双)と連年大作を発表し入選を重ねた。
昭和6年(1931年)12月3日歿(63歳)。弟子に金森観陽水上如観がいる。陶芸家の富本憲吉の妻となる『青鞜』同人の尾竹一枝(紅吉)は娘、その妹の福美の夫は画家の安宅安五郎、一枝の息子で映画監督の富本壮吉は孫である。
2007年、越堂が美術誌『Bien(美庵)』(Vol.43、2月25日号)の巻頭特集「きみは、尾竹三兄弟を知っているか?」に尾竹三兄弟の次兄として紹介されると、国際浮世絵学会の機関誌や三兄弟の地元の『新潟日報』、『北日本新聞』でもこの『Bien(美庵)』の特集を評価し、全国に潜在していたファン、コレクター、研究家、美術館、骨董商から熱いエールと全国規模の回顧展を望む声が上がり、盛り上りを見せている。なお比較的メジャーな出版物や展覧会、専門書などでも「尾竹」の読みを「おだけ」(Odake)と堂々と記しているものが多いが、これは明らかな誤りで正しくは「おたけ」(Otake)である。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「尾竹越堂」の詳細全文を読む




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