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尾竹竹坡 : ミニ英和和英辞書
尾竹竹坡[おたけ ちくは]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [お]
 【名詞】 1. tail 2. ridge 
: [たけ]
 【名詞】 1. bamboo 2. middle (of a three-tier ranking system) 

尾竹竹坡 : ウィキペディア日本語版
尾竹竹坡[おたけ ちくは]
尾竹 竹坡(おたけ ちくは、明治11年(1878年1月12日 - 昭和11年(1936年6月2日)、は、明治から昭和期の浮世絵師日本画家。いわゆる尾竹三兄弟の一人で、尾竹越堂は兄、尾竹国観は弟。姓の読みを「おだけ」とする資料が多いが、これは誤りで、ただしくは「おたけ」である。
== 経歴 ==
明治11年(1878年)1月12日、現在の新潟市に生まれる。本名は染吉。4歳で南宗派笹田雲石に学び、竹坡の雅号を受ける。6歳の頃には花鳥画を器用な筆捌で描き上げ、神童と言われたという。明治24年(1891年富山に移り、兄・国一(越堂)とともに生活のために売薬版画の下絵や新聞挿絵を描く。弟・国観が『小国民』の全国児童画の一等賞を得たことを縁に、富山から同誌に挿絵を送るようになる。
明治29年(1896年)2月に国観とともに上京して川端玉章に入門。日本絵画協会日本美術院連合絵画共進会等で受賞を重ね、人気が高まる。当時、横山大観東京美術学校出身作家の作品の売価が100円から200円だった時代に500円の高値で売れ、これに気を良くした二人は腕力に任せて暴走する傾向も見られた。明治37年(1904年)に国画会で戦争展覧会を開いて盛況、明治38年(1905年)には若手作家を糾合して大同画会を発足させ、国画玉成会へ合流する。玉成会の一員として文展に出品することになり、今村紫紅安田靫彦らと五浦研究所に逗留し、明治40年(1907年)の第1回文展入選作「羅睺羅」を描く。
ところが、明治41年(1908年)10月岡倉覚三(天心)と玉成会の審査員を選ぶ酒席で岡倉が、当時の人気と業績からすれば後輩に当たる靫彦ら数名の青年を独断で指名しようとしたため、衝突する。憤慨した竹坡は国画玉成会を弟の国観とともに退会し、以後岡倉一派とは袂を分かつことになる。岡倉は尾竹兄弟の才能を認めていたが、彼の考える日本美術の特色、壮麗で優美さを求める高い志を持とうとしない兄弟に不満を持ったとされている。
明治42年(1909年)の第3回文展で『茸狩』(現在行方不明)が三等賞、明治43年(1910年)の『おとづれ』や明治44年(1911年)の『水』が二等賞(最高賞)と注目を浴びるが、台頭してきた学校派との根強い対立や二人の単純で荒削りな性格が災いして、大正2年(1913年)の第7回文展には兄弟そろって落選。この落選の原因が美術行政制度にあるとして、大正4年(1915年)には衆議院議員に立候補するも落選。このとき生じた多額の負債が、後半生の没落の契機となる。借金返済のため、『波に旭日』ばかりを流れ作業のように描く濫作で自ら画名を落としていく。大正末には未来派に接近、前衛グループ八火会を結成するなど再起を試みるも、昭和11年(1936年)6月2日気管支喘息により歿(58歳)。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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