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少弐経資 : ミニ英和和英辞書
少弐経資[しょうに つねすけ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ふたつ]
 (n) two (used in legal documents)
: [けい, たていと]
 (n) (weaving) warp

少弐経資 : ウィキペディア日本語版
少弐経資[しょうに つねすけ]

少弐 経資(しょうに つねすけ)は、鎌倉時代中期の武将。鎌倉幕府御家人少弐資能の子。少弐氏の当主。武藤 経資とも。
== 概略 ==
経資の「経」字は、鎌倉幕府第4代執権北条経時偏諱と考えられ、経時に同字を与えた4代将軍藤原頼経出家する寛元3年(1245年)から、経時が亡くなる同4年(1246年)の間に元服を遂げたと推測されている〔。経資の生没年については、1229年1292年説、1226年1289年説などがある〔コトバンク_少弐経資とは (外部リンク)を参照。いずれも享年が64という点では一致しており、没年からの逆算によって生年が判明する。服部、2014年、P.416では『筑後国史』筑紫系図等に正応二年(1289年)六十四歳卒とあることから、1229年生まれとしているが、これは計算違いである。但し、推定される元服の年次に従えば、服部の述べるように1229年生まれとするのが妥当とみられる。〕が、元服は10代で行うのが通例であるから、前者が正しいとされる〔。
父の存命中から共に北九州の統治に当たり、元寇に際しては異国警固体制を整え、の使者への対応や九州御家人たちの指揮、石築地の築造工事の統括、蒙古合戦の勲功配分とその調査などを行った。史料上での初見はかなり遅く、40歳となる文永6年(1269年)9月付の文書〔服部、2014年、P.416。典拠は『武雄神社文書』(『鎌倉遺文』第14巻・10503号文書)。〕である。
45歳となる文永11年(1274年)8月までに大宰少弐に任官〔服部、2014年、P.416。典拠は『宗像大社文書』(『鎌倉遺文』第15巻・11674号文書)。〕。同年の文永の役では、経資の弟・少弐景資が日の大将として日本軍を指揮していたが、この時の経資の動向に関する史料は無く、詳細は不明。1275年、父から家督と所領を譲り受ける。
弘安4年(1281年)の弘安の役における壱岐島の戦いでは、負傷しながらも元軍を相手に奮戦して勝利し、壱岐島から蒙古軍を駆逐した。しかしこの戦いで、子の少弐資時を失う。その後も大友頼康と共に鎮西奉行の一人として、九州の軍政にあたった。
弘安7年(1284年)、8代執権北条時宗が死去したのを契機に出家し、浄恵と号した。翌年の霜月騒動では平頼綱側に与して、安達泰盛側に与した弟の景資と泰盛の子安達盛宗を討ち取った(岩門合戦)。この戦いの結果、北条得宗家の鎮西支配が強化されて、少弐氏の勢力は削られ、筑後・豊前・肥前・肥後の守護を失った。正応5年(1292年)に死去。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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