翻訳と辞書
Words near each other
・ 小指徹
・ 小指敦子
・ 小指球筋腱
・ 小指球筋膜
・ 小指頭大
・ 小振り
・ 小排水路
・ 小掛照二
・ 小接合体
・ 小摺戸村
小政
・ 小教区
・ 小教理問答
・ 小教理問答書
・ 小数
・ 小数点
・ 小数賀芙由香
・ 小敵
・ 小敷谷
・ 小文字


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

小政 : ウィキペディア日本語版
小政[こまさ]

小政(こまさ)〔笹川, p.236.〕〔野田, p.38.〕〔今川, p.183-184.〕〔大塚神谷, p.30-31.〕〔''小政''コトバンク、2015年7月24日閲覧。〕〔清水次郎長の二十八人衆を知りたい 国立国会図書館、2015年7月24日閲覧。〕、村上元三小説次郎長三国志』に淸水の小政(しみずのこまさ)として登場する山本 政五郎(やまもと まさごろう、天保12年12月 / グレゴリオ暦 1842年1月 - 1874年5月29日)は、かつて実在した日本の侠客である〔〔〔。清水次郎長配下の「清水二十八人衆」に数えられ〔、同じく次郎長配下で同姓同名の「山本政五郎」を名乗る大政(1832年 - 1881年)〔大政 、コトバンク、2015年7月24日閲覧。〕と区別して「小政」と呼ばれる〔〔〔。本名は吉川 冬吉(よしかわ ふゆきち)〔〔〔。
== 人物・来歴 ==
天保12年12月、現行のグレゴリオ暦によれば1842年1月、遠江国敷知郡浜松宿新町(現在の静岡県浜松市中区中央)の魚屋・吉川由蔵の次男、冬吉として生まれる〔〔。桶屋の長男であるともいうが〔、のちに判決を申し渡された際の「所刑申渡文」(1871年)には小政には、家督を継ぐ兄・由五郎があることが示されている〔。今川徳三は、「天保14年」(1843年)生まれとも言われているといい、生年は定かではないとしている〔。
笹川臨風は「遠州濱松の魚問屋の息で、十一歳の時から次郎長に養はれた」と書く〔。『はままつ百話』(静岡新聞社)は、小政が清水次郎長(本名・山本長五郎、1820年 - 1893年)に初めて会ったのは嘉永四年(1851年)の春であるとし、そのときの小政は、浜松宿を出て東海道を西へ行った八丁畷(現在の浜松市中区森田町)で行商していたとする〔。このとき小政は満9歳になったばかりであり、数え年は10歳であるが、「その後、次郎長の身内となり、大いに売り出した」としている〔。養子になったときの名が山本 政五郎であるとされるが、野田宇太郎はこれを山本 音五郎(やまもと おとごろう)であるとする〔。今川徳三によれば、山本鉄眉(のちの天田愚庵)が次郎長本人に生前取材した『東海遊侠伝』(1884年)に「小政」の名が初めて登場するのは、文久3年12月(1864年1月)、黒駒勝蔵との天竜川での対陣のくだりである〔〔山本, p.69-79.〕。講談浪曲の世界では「大政・小政」と並び称せられるが、史実においては、小政が清水港に滞在した期間は極めて短い〔。笹川によれば、大政が「六尺以上」(約181センチメートル)の大男であったのに対し、小政は成人しても身長が「僅々四尺八寸」(約145センチメートル)の低身長であったとし、「居合術に熟達し、三尺餘の刀を常に用ふ。敏捷精桿無比といはれた」とその特徴を描写する〔。
1865年(慶応元年)、遠江国佐野郡掛川宿(現在の静岡県掛川市)でお加登(1847年 - 1921年)と結婚したが、同地で傷害事件を起こして逃亡している〔〔。6年間の逃亡生活を経て、明治維新後の1871年(明治4年)、清水に戻ったが〔〔、同年に行われた荒神山手打式後の清水一家の集合写真には写っていない。1873年(明治6年)には、旧刑法成立以前の雑犯律賭博条により逮捕され、同年2月7日、准流刑5年の判決を受けて入獄した〔〔〔。この際の「所刑申渡文」に小政の存在を定義するにあたり「遠江国敷知郡浜松宿新町 雑業由五郎弟政五郎事吉川冬吉」と記してあり、同時点では、小政は山本姓ではないが「政五郎」と名のっており、本名は「吉川冬吉」であることが示されている〔。
1874年(明治7年)5月29日、浜松県敷知郡浜松宿高町(現在の静岡県浜松市中区元城町)の浜松監獄(現在の静岡刑務所浜松拘置支所、1918年移転)〔浜松監獄跡 浜松市、2013年9月1日付、2015年7月24日閲覧。〕で獄中死去した〔〔〔〔〔。満32歳没。国領屋こと大谷亀吉(1832年 - 1905年)の妻が小政の遺体を引き取り、曹洞宗真道山大聖寺(現在の同市中区板屋町208番地〔曹洞宗大聖寺 HAQBI、2015年7月24日閲覧。〕、のちに現在の同区に移転)に墓を建てたという〔大聖寺跡 特定非営利活動法人アクション・シニア・タンク、2015年7月24日閲覧。〕。戒名は「白浪良満信士」〔。今川は死因に関しても諸説あるとし、獄中での病死説と毒殺説があり、死去したのも同年4月に出所したあとに敷知郡東鴨江村(現在の浜松市中区鴨江)に刀剣商・川瀬某の所有する長屋を借りて住んでいたところ、病死した説と殴り込みに遭って殺された説があるという〔。野田は、小政は獄死であり「享年四十二」であると書いている〔。『はままつ百話』は、大聖寺の過去帳に「享年三十二年六力月」と記されていると指摘する〔。同寺には、1945年(昭和20年)の浜松空襲までは、小政の遺品として「長脇差」とともに小政が獄中で制作した「こよりの紙入れ」が遺されていたが、同寺本堂とともに焼失した〔。
妻のお加登は、小政の没後、1歳下の大庭平太郎(1848年 - 1910年)と再婚した〔。次郎長が死去したのは、小政の没後19年後の1893年(明治26年)6月12日、満73歳であった〔清水次郎長 、コトバンク、2015年7月24日閲覧。〕。次郎長の墓は、臨済宗妙心寺派梅蔭禅寺にあるが、ここに次郎長夫人のお蝶、大政、増川仙右衛門(1836年 - 1892年)とともに、もうひとつの小政の墓もあり、墓碑銘は「侠客小政墓」である〔梅蔭寺 小松園、2015年7月24日閲覧。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「小政」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.