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小掛照二 : ウィキペディア日本語版
小掛照二[こがけ てるじ]

小掛 照二(こがけ てるじ、1932年12月18日 - 2010年5月9日)は、広島県甲奴郡上下町出身の元陸上選手陸上競技指導者。元三段跳世界記録保持者。日本陸上競技連盟(日本陸連)副会長、名誉副会長。日本オリンピック委員会(JOC)元副会長。日本オリンピアンズ協会元副会長。
== 来歴 ==
中国山地山間の町、上下町の農家の長男として生まれる。叔父、父も甲奴体協のリレーメンバーで、恵まれた体を生かし幼少期から跳躍の素養を発揮した。同郷の先輩・織田幹雄アムステルダムオリンピック(1928年))、から南部忠平ロサンゼルスオリンピック(1932年))、田島直人ベルリンオリンピック(1936年))まで三大会連続で金メダルを獲り、当時は日本のお家芸だった三段跳を教師の勧めで始める〔中国新聞 | 生きて 日本陸連名誉副会長 小掛照二さん 〕。
当時の日本では子供が"ホップ・ステップ・ジャンプ"、と遊びで使うほど、三段跳は人気種目だった。新制高校1期生となった1948年広島県立上下高校からジャンパーの歩みが始まる。三段跳や走高跳走幅跳などで多くのタイトルを獲得、全国高校陸上選手権の第二回、三回大会では一人で上下高校を総合2位に導いた。前述の織田、西田修平らの誘いで早稲田大学に進学し早稲田大学競走部で活躍〔。
大学時代は伸び悩んだものの1955年大昭和製紙入社後は才能が開花。翌1956年、跳べば自己記録を更新、当時の新聞は「メルボルンに光明」と大きく騒ぎ立てた。同年秋、仙台市宮城陸上競技場で行われた日本陸上競技選手権兼メルボルンオリンピック最終予選会に於いて、"三段跳世界新記録を樹立"(16m48cm)。当時の世界記録を25cmも上回る驚異的な記録だった。しかし40日後の五輪本番までの合宿中、カメラマンの要望で何度も跳んで足首を捻挫、ほとんど練習出来ないまま本番に臨み8位に終わった〔指導者への道 - 島村俊治(コラム) 〕。
当時のマスコミは「若さと精神面の問題」と厳しく批判した。日本中の期待に沿えず重い十字架を背負いながらも競技を続け1960年ローマオリンピック予選会で3位となり、出場権を得たかに思われたが、結果的に選考会議で漏れ、代わりに6位の選手が代表となった。このときユニフォームとスパイクを燃やし選手生活に訣別、陸上を辞めた〔。
2年後、織田から「選手を育てて自分の果たせなかった夢をコーチでかなえてほしい」と誘われ、自らの無念の思いをメダリスト育成にかけようと決意〔〔『月刊陸上競技』2010年7月号97頁〕。1962年、29歳から日本陸上競技連盟(日本陸連JAAF)強化コーチとなり指導者としての道を歩む〔。沢木啓祐は「引退後もスポーツ界に専念された最初の方ではないか」と話している〔中国新聞2010年5月11日 〕。しかしこの後は日本陸上不遇の時代を長きに渡り歩むこととなった。1964年東京オリンピック陸上監督、1980年、幻のモスクワオリンピック陸上コーチ。1983年、日本オリンピック委員会(JOC)常任委員。1981年、日本陸連強化委員長に就任〔。跳躍だけでなく、競技全体を見渡す立場になり、マラソンにも力を注いだ〔読売新聞2010年8月8日33面<追悼抄>〕。1984年ロサンゼルスオリンピック陸上監督。1988年ソウルオリンピック惨敗後、JOCの日本体育協会(JASA)からの独立にも尽力〔中国新聞インタビュー 小掛照二 世界に通用する選手を育てるには 〕。1989年JOC理事、この年から日本陸連強化本部長、1999年から副会長となり実務のトップとなる。またJOCも強化本部長に就任し1993年ユニバーシアードバッファロー大会日本選手団団長、1994年広島アジア競技大会副団長、バンコク(1998年)、釜山(2002年)アジア競技大会で日本選手団団長を務めるなど、多くの世界大会で日本選手団団長として活躍。1999年からJOC副会長。2001年JOC会長選では候補に名前が挙がった〔杉山茂・岡崎満義+スポーツデザイン研究所編『スポーツの今日を刻む ~スポーツジャーナリスト21人からのメッセージ~』創文企画、2002年、50頁〕。2002年2003年早稲田大学競走部総監督〔早大所沢グランドの紹介 - 早稲田大学競走部 〕。その他、広島の全国都道府県対抗男子駅伝北海道マラソン長野マラソンの創設に尽力、また東京陸上競技協会会長及び組織委員会副会長として東京マラソンの準備・運営など、多くの陸上大会開催、陸上競技の発展、底辺拡大に尽力した〔〔〔〔小掛照二さんの葬儀 感謝 カンレキ 雨あられ +2/ウェブリブログ 文部科学大臣表彰「生涯スポーツ優良団体」 長野オリンピック記念 長野マラソン 〕。
40年以上の長きに渡る日本陸連のリーダーとしての選手強化実績に対して2005年旭日中綬章が授与された。また国際オリンピック委員会(IOC)のオリンピックオーダー銀賞も受賞している〔。
2010年5月9日肝不全により逝去した〔三段跳びで世界記録…小掛照二氏が死去 スポーツニッポン 2010年5月10日閲覧〕。。
長男はTBSスポーツ局のプロデューサー・小掛義之。『知ってるつもり?!』などのアシスタントを務めた高木希世子は義理の娘にあたる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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