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寒河江氏 : ミニ英和和英辞書
寒河江氏[さがえうじ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [かん]
 【名詞】 1. midwinter 2. cold season 3. coldest days of the year
: [かわ]
 【名詞】 1. river 2. stream 
: [こう, え, ごう]
 【名詞】 1. inlet 2. bay 
: [うじ]
 【名詞】 1. family name 2. lineage 3. birth 

寒河江氏 : ウィキペディア日本語版
寒河江氏[さがえうじ]

寒河江氏(さがえうじ、さがえし)は、大江氏の支流である日本の氏族の一つ。寒河江荘を地盤とし鎌倉時代から室町時代初期までは藤原摂関家請所地頭請)として、それ以後は寒河江荘を国人領主として支配した。寒河江大江氏ともいう。南北朝時代末までは大江氏を称したが、以降は寒河江氏を称したとされる〔ただし系図などは「大江氏系図」と記載される。〕。



== 鎌倉時代 ==

寒河江氏の祖である鎌倉幕府初代政所別当大江広元は、文治5年(1189年)の奥州合戦奥州藤原氏を滅亡させた際の論功行賞で、長井荘置賜郡:現在の置賜地方)及び寒河江荘寒河江市および西村山郡北村山郡の一部)の地頭職を得て〔「安中坊系図」『東北大名の研究』大江氏の支配構造に関する一考察、鈴木勲執筆、p.247〕、広大な領地を拝領した。文治6年(1190年)寒河江荘には目代として多田仁綱を送り、仁綱は当初本楯(寒河江市本楯)に起居するが後に吉川(西川町吉川)に居を移した。建久3年(1192年)広大な所領は広元の子らによって分割相続され、広元の嫡男大江親広寒河江荘の地頭職を相続するに至った。親広は寒河江八幡宮〔寒河江八幡宮の由緒によると、1093年の創建当初は八幡原(寒河江市元町・若葉町)に存在したが親広によって再度勧請され現在地に社殿が建立されたという。〕を産土神とし、長岡山山頂の観音堂を再興、建保2年(1214年)大沼大行院を再建した〔『寒河江市史 大江氏ならびに関係史料』p.193、「大沼大行院系図」〕。また、承久元年(1219年)末弟を慈恩寺別当坊とする〔『寒河江市史 上巻』p.425〕など民心の安定につとめた。目代は引続き多田仁綱がつとめ、親広は鎌倉幕府重臣として活躍した。しかし承久3年(1221年承久の乱が起こると、当時京都守護であった親広は後鳥羽上皇方に味方し、幕府側に付いた父広元や息子佐房と争うことになってしまう。広元は大軍による上京策を献策し、また佐房は東海道方面軍の先鋒として参加し、幕府軍の勝利に貢献した。敗れた親広は寒河江荘の内楯(現・寒河江市丸内)に逃れて隠棲する事になったが、父や息子が幕府軍の勝利に貢献したためか、親広に対する追及の手は厳しくなかったようである〔『寒河江市史 上巻』 p.358。また大江一族の者や長崎中山氏の祖となる中山忠義なども共に下向している〕。しかし親広が幕府に反旗を翻したため、大江氏の惣領は以後長井氏がつとめることとなった。嘉禄元年(1225年)大江広元が鎌倉で息を引き取ると、親広は息子佐房に命じて阿弥陀如来の尊像を彫刻させ、胎内に広元の遺骨を納め、堂社を建てて吉川に安置した〔『寒河江市史 大江氏ならびに関係史料』p.92「安中坊系譜」〕。この堂舎は吉川阿弥陀堂と呼ばれ、後に多田仁綱が別当をつとめた。
貞永元年(1232年御成敗式目が制定され承久の乱の親広の罪が許される〔親広の子広時が相続したのは寒河江荘の南方であり、寒河江荘北方は北条氏領となったため、乱の結果没収されたと考えられる。『寒河江市史 上巻』p.366〕。仁治2年(1241年)親広から次男高元に伝領された寒河江荘であったが高元が早世したため、妻の藤原親実周防守)の娘に1代のみ相続された。周防守の娘が没すると寒河江荘北方は闕所となって北条氏の所領となり、高元の弟大江広時は北方を除く寒河江荘を相続した。広時及び子の大江政広は鎌倉幕府の要職にあり鎌倉に定住していたため、寒河江には目代を送るにとどまった。文永3年(1266年)大沼大行院に大鐘を納めた〔『寒河江市史 大江氏ならびに関係史料』p.194「大沼大行院系図」〕。建治元年(1275年)5月六条八幡新宮造営費用として15貫を納めた〔『寒河江市史 大江氏ならびに関係史料』p.390「造六条八幡新宮用途支配事」鎌倉中 少輔入道跡。大江氏一族では長井氏が180貫、毛利氏が20貫、那波氏が30貫。鎌倉住の近隣諸侯では中条氏小田島荘)が100貫、伊達氏伊達郡)が25貫、相馬氏小野寺氏が30貫〕。
13世紀末頃(1200年代終盤)に政広の子の大江元顕が、大江氏族として初めて寒河江に入部したと言われている。弘安8年(1285年)鎌倉幕府内の内訌であった「霜月騒動」の結果、大江氏の一族である大江泰広(佐房の曾孫:殖田又太郎入道〔[熊谷直之所蔵文書]「安達泰盛乱自害者注文」、「安達泰盛乱聞書」〕 )、大江盛広(泰広の子)、大江泰元(泰広の子)らが討死しており、執権北条氏の圧力を避けるための措置であったと推定される〔毛利季光の孫宗元も寒河江荘に下向したとみられる『寒河江市史 上巻』p.372〕。
永仁4年(1296年慈恩寺で大火があり、本堂堂社や諸仏が焼失する。正安元年(1299年)造営が開始され嘉元4年(1306年)完成した。寒河江荘に定着した大江氏も尽力したものと考えられる〔『寒河江市史 上巻』p.376〕。
正慶2年(1333年)鎌倉幕府が新田義貞に攻め込まれると、同族の大江(小沢)貞広・親顕が執権北条高時に殉じて討死した。貞広の弟懐顕や親顕の子顕広は寒河江氏を頼って落ち延びてきて、時茂の時貫見(大江町貫見)を領している。また後年大沼大行院を相続して雄尊と名乗った。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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