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姚萇 : ウィキペディア日本語版
姚萇[よう ちょう]

姚 萇(よう ちょう)は、五胡十六国時代後秦の創建者。
== 生涯 ==
南安族の酋長姚弋仲の第24子。父の代には羌の勢力は小規模であったために、漢趙石趙の傘下に属していた。異母兄の姚襄の代になると東晋の傘下に入った。後に姚襄は東晋と決別し、形式上は前燕に服属して淮南へ侵攻した。その後、姚襄は出身地である関中に根拠地を求めて転戦を繰り返し、光寿元年(357年)に族の前秦と戦うも、長安近郊の三原で敗死した。
兄の後を継いだ姚萇は宣昭帝苻堅に帰順、前秦の将として各地を転戦し、建元7年(371年)に前仇池、建元12年(376年)に前涼に遠征、建元14年(378年)から建元15年(379年)にかけて苻丕慕容垂と共に襄陽に遠征するなど多くの功績を立てた。建元19年(383年)、淝水の戦いで大敗した宣昭帝に謀反を起こした鮮卑族の西燕慕容泓討伐を命じられ出陣したが、建元20年(384年)に敗れて渭北へ逃れた。逃亡先の馬牧で漢・羌の諸長から盟主に推戴され、大将軍大単于・万年秦王を称して前秦から自立した。史家はこれをもって後秦の成立としている。
白雀2年(385年)7月、宣昭帝は慕容沖の攻撃に抗しきれず長安から脱出した。姚萇は五将山で宣昭帝を捕らえると新平県の仏寺に幽閉し、強引に禅譲を迫った。しかし、宣昭帝はこれを頑健に拒否したため、姚萇は激怒して翌白雀3年(386年)8月にその一族を縊り殺した。同年、長安に拠っていた西燕が長安を放棄して東方へ向かうと、姚萇はさほど労せずして長安へ入城し、ここを常安と改称して帝位に即き、国号を大秦と定めた。しかし、宣昭帝の跡を継いだ哀平帝苻丕や高帝苻登は前秦の残党を結集して攻勢に転じ、武昭帝の存命中には前秦の勢力を壊滅させることができなかった。
武昭帝には姚碩徳姚緒姚旻などの優秀な弟達や、尹緯狄伯支など天水郡出身の漢人豪族の活躍がめざましく、いきおいその集団も南安・天水二郡の隴西出身者で固めた特異なものとなった。建初8年(393年)に64歳で崩御し、長男の姚興が後を継いだ。
死の直前、病床にあった武昭帝が夜に見た夢に、苻堅の怨霊が出現した。錯乱した武昭帝は思わず平伏して「主上(苻堅)の御命を奪ったのは愚兄の襄でありまする。私は無罪でございまする」と叫んだ。この時、苻堅に随っていた亡霊に矛を投げられ、それが自分の陰部に当たったところで夢から覚めた。目が覚めると、陰部が大きく腫れ上がっていた。やがてそれは破裂して大量に出血し、絶命したという〔『晋書』苻登伝〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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