翻訳と辞書
Words near each other
・ 慕士羅
・ 慕士羅桓雄
・ 慕容
・ 慕容イ
・ 慕容カイ
・ 慕容ガイ
・ 慕容コウ
・ 慕容三蔵
・ 慕容儁
・ 慕容凱
慕容垂
・ 慕容契
・ 慕容宝
・ 慕容廆
・ 慕容復
・ 慕容徳
・ 慕容忠
・ 慕容恪
・ 慕容暐
・ 慕容望


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

慕容垂 : ウィキペディア日本語版
慕容垂[ぼよう すい]

慕容 垂(ぼよう すい、拼音:Mùróng Chuí)は、五胡十六国時代後燕の創建者。
== 生涯 ==

=== 前燕の部将 ===
鮮卑慕容部の出身。前燕慕容皝の第5子として生まれる〔三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P103〕。兄に慕容儁慕容恪、弟に慕容納慕容徳など。初名は「」だったが、ある日落馬して歯を折る大怪我をし、長兄の慕容儁によって「𡙇」(が垂、が夬、「缺」と同字、常用漢字では「欠」)と改名させられた。その後さらに旁の「」を取り除いて「」と変えられた。
父からは寵愛され、342年高句麗344年宇文逸豆帰討伐に従軍、348年に父が亡くなり兄が即位した後は後趙を滅ぼした冉閔が建てた冉魏討伐にも参戦、戦功により352年に呉王に任命され、侍中・右禁将軍・録留台事にも任じられ、征南将軍・荊州兗州も兼ねて南境に配置された。360年に兄が死去、甥の慕容暐が即位した時は慕容暐の補佐役になった次兄慕容恪に重用され、365年に慕容恪と従軍して東晋桓温に奪われていた洛陽を奪還した。
369年4月に桓温の東晋軍が3度目の北伐を開始し〔三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P75〕、前燕軍は敗退して黄河北岸の枋頭(現在の河南省滑県)まで退却し、前燕中枢部では龍城への遷都も検討された〔三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P76〕。これに対して慕容垂は自ら軍を率いて桓温と対戦し、前秦の援軍が到着する前に桓温を破って大勝、名声を上げて評価が高まった〔。
しかし、それが原因で逆に叔父で太傅慕容評と皇太后の可足渾氏に恨まれ、排除の動きがあったため、慕容垂は前秦苻堅の下に亡命した〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「慕容垂」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.