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塚原卜伝 : ミニ英和和英辞書
塚原卜伝[つかはら ぼくでん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [つか]
 【名詞】 1. mound 
: [はら, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation
: [ぼく]
  1. (n,vs) divining 2. telling a fortune 3. predicting 4. choosing 5. settling 6. fixing
: [でん, てん, つたえ]
 【名詞】 1. legend 2. tradition 3. life 4. biography 5. comment 6. communication

塚原卜伝 : ウィキペディア日本語版
塚原卜伝[つかはら ぼくでん]

塚原 卜伝(つかはら ぼくでん)は、日本戦国時代剣士兵法家。父祖伝来の鹿島古流(鹿島中古流)に加え、天真正伝香取神道流を修めて、鹿島新当流を開いた。
== 生涯 ==

鹿島神宮の神官で大掾氏の一族・鹿島氏の四家老の一人である卜部覚賢(吉川覚賢)の子として常陸国鹿島に生まれる。幼名は朝孝。時期は不明だが後に塚原安幹の養子となる。同時に高幹(たかもと)とした。塚原氏本姓平氏で、鹿島氏の分家である。
実父からは鹿島古流(鹿島中古流とも)を、義父からは天真正伝香取神道流をそれぞれ学んだ。『関八州古戦録』『卜伝流伝書』によれば、松本政信の奥義「一の太刀」も養父の安幹から伝授されたという(松本から直接学んだという説、卜伝自身が編み出したとする説もある)。やがて武者修行の旅に出て、己の剣術に磨きをかけた。卜伝の弟子である加藤信俊の孫の手による『卜伝遺訓抄』〔卜伝自身が詠んだとされる「卜伝百首」の他、沢庵宗彭による序、加藤信俊の孫(本名不詳)による後書によって構成される伝書。正確な成立年代は不明だが、寛永年代後半以降と推測される。〕の後書によると、その戦績は「十七歳にして洛陽清水寺に於て、真剣の仕合をして利を得しより、五畿七道に遊ぶ。真剣の仕合十九ヶ度、軍の場を踏むこと三十七ヶ度、一度も不覚を取らず、木刀等の打合、惣じて数百度に及ぶといへども、切疵、突疵を一ヶ所も被らず。矢疵を被る事六ヶ所の外、一度も敵の兵具に中(あた)ることなし。凡そ仕合・軍場共に立会ふ所に敵を討つ事、一方の手に掛く弐百十二人と云り」と述べられている。よく知られている真剣勝負に川越城下での梶原長門との対決がある。
弟子には唯一相伝が確認される雲林院松軒(弥四郎光秀)と、諸岡一羽真壁氏幹斎藤伝鬼房(勝秀)ら一派を編み出した剣豪がいる。また、足利義輝北畠具教にも剣術を指南したという。また、この両者には奥義である「一の太刀」を伝授したとされている。
上記の通り「幾度も真剣勝負に臨みつつ一度も刀傷を受けなかった」などの伝説により後世に剣聖と謳われ、好んで講談の題材とされ、広く知られた。著名な逸話のひとつで勝負事にまつわる訓話としてもよく引き合いに出されるものに、「無手勝流」がある。この中で、卜伝は琵琶湖の船中で若い剣士と乗り合いになり、相手が卜伝だと知ったその剣士が決闘を挑んでくる。彼はのらりくらりとかわそうとするが、血気にはやる剣士は卜伝が臆病風に吹かれて決闘から逃れようとしていると思いこみ、ますます調子に乗って彼を罵倒する。周囲に迷惑がかかることを気にした卜伝は、船を降りて決闘を受けることを告げ、剣士と二人で小舟に乗り移る。そのまま卜伝は近傍の小島に船を寄せるのだが、水深が足の立つ程になるやいなや、剣士は船を飛び降り島へ急ごうとする。しかし卜伝はそのままなにくわぬ調子で、櫂を漕いで島から離れてしまう。取り残されたことに気付いた剣士が大声で卜伝を罵倒するが、卜伝は「戦わずして勝つ〔『孫子』謀攻篇第三に曰く、凡そ用兵の法は、国を全うするを上と為し、国を破るは之に次ぐ。〕、これが無手勝流だ」と言って高笑いしながら去ってしまったという。
若い頃の宮本武蔵が卜伝の食事中に勝負を挑んで斬り込み、彼はとっさに囲炉裏の鍋の蓋をにして武蔵の刀を受け止めたとする逸話があるが(右記の月岡芳年錦絵などで知られる)、この二剣豪は同時代ではなくこれについては全くのフィクションである。
『鹿島史』によれば卜伝は元亀2年(1571年)2月11日に死去したとされる。83歳没。『天真正伝新当流兵法伝脉』では鹿島沼尾郷田野(現鹿嶋市沼尾)の松岡則方の家で死去としている。墓は須賀村(現鹿嶋市須賀)の梅香寺にあったされるが同寺は焼失し、墓のみが現存している。位牌は近くの長吉寺にある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「塚原卜伝」の詳細全文を読む




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