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塚原二四三 : ミニ英和和英辞書
塚原二四三[つかはら にしぞう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [つか]
 【名詞】 1. mound 
: [はら, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation
: [に]
  1. (num) two 
: [よん]
  1. (num) four 
: [み]
  1. (num) three 

塚原二四三 : ウィキペディア日本語版
塚原二四三[つかはら にしぞう]

塚原 二四三 (つかはら にしぞう、一説には「つかはら ふしみ」、明治20年(1887年4月3日 - 昭和41年(1966年3月6日)は大正~昭和期の日本海軍軍人。海軍大将福井県生まれ。本籍は山梨県中巨摩郡三恵村(現南アルプス市)〔海軍歴史保存会『日本海軍史 第9巻 将官履歴 上』1995年〕 。
==生涯==
甲府中学を経て、明治41年(1908年)、海軍兵学校36期を20位の成績で卒業。同期に有栖川栽仁王少尉宮・沢本頼雄大将・南雲忠一大将がいる。
遠洋航海・砲術学校学生・水雷学校学生を経て明治44年(1911年)から本格的な勤務に就き、敷島・夕立・阿蘇・佐世保海兵団で経験を深める。
大正3年(1914年12月1日から1年間、海軍大学校で学び、最上・関東・千歳・伊吹の航海長を歴任した
大正10年(1921年2月25日横須賀海軍航空隊附に任じられてから、以後は航空畑に転じる。同年7月6日に臨時航空術講習部員、大正15年(1926年1月15日鳳翔副長、昭和2年(1927年4月5日航空本部教育部員、同年12月1日に航空本部総務部員、昭和7年(1932年)11月28日に航空廠総務部長、昭和8年(1933年)に赤城艦長、昭和9年(1934年11月1日に航空本部総務部長と、航空教育や航空部隊を断続的に歴任している。
日華事変勃発後の昭和12年(1937年12月1日に、空母部隊である第2航空戦隊司令官に任ぜられたが、半月後には艦載機からなる現地派遣部隊の第2連合航空隊司令官へ移り、最前線での指揮を始めた。更に、昭和13年(1938年12月15日には、陸上攻撃機からなる第1連合航空隊司令官に任ぜられたが、当面の目標であった南京漢口の攻略が完了した一方、相次ぐ爆撃で機体を消耗していたために、塚原が実際に爆撃の指揮を取ることも少なく内地で再編することになった。
昭和14年(1939年10月3日、再編した第1連合航空隊を漢口で出迎えた塚原ら航空隊首脳部は、中国軍の奇襲爆撃を受けた(漢口空襲)。この爆撃によって塚原は左腕切断の重傷を負い、翌年4月まで療養生活を余儀なくされた。療養中の昭和14年(1939年)11月15日に中将へ昇進し、九死に一生を得た塚原だが、この重傷では艦上での勤務は困難と判断されてしまい、以後は基地航空隊の指揮官にとどめられてしまう。塚原ほど航空に精通した指揮官が他にいなかったにも関わらず、塚原を機動部隊指揮官に任ずることができなくなり、塚原と同期ながら航空と全く縁のなかった南雲忠一に真珠湾奇襲部隊を託さざるを得なくなってしまった。
鎮海要港部司令官を務めながら傷を癒した塚原は、昭和16年(1941年9月10日フィリピンマレー攻略の上空支援部隊である第11航空艦隊司令長官に任じられた。台湾よりフィリピンを直接攻撃できる精鋭部隊を統率する、塚原に最適なポジションであった。開戦と同時に、塚原率いる第11航空艦隊は、フィリピン奇襲爆撃、マレー沖海戦(実際に部隊を指揮したのは、第11航空艦隊所属でサイゴン(現在のホーチミン)に基地司令部を置いた第22航空戦隊松永貞市海軍少将)と大戦果を重ね、攻略部隊の防衛と最前線への攻撃に活躍した。後に、第11航空艦隊は最前線基地ラバウルに進出し、ソロモン海域を中心に活動の範囲を拡大し、「ラバウル航空隊」の愛称で親しまれることになる。
昭和17年(1942年)10月、最前線に立ち放しの塚原はマラリアに罹患したため、後任を草鹿任一中将に託し、内地に帰還することになった。現場から引退した塚原は、同年12月1日より航空本部長となり、航空行政の最高責任者として現場を支援する立場となった。昭和19年(1944年3月1日には、参謀本部に倣って軍令部も次長を2人に増員することになり、航空本部長と兼任したうえで塚原が増員に充てられ、長らく次長を務めた伊藤整一中将とタッグを組んだ。しかし次長の経験は伊藤が圧倒的に長いにもかかわらず、塚原が兵学校の先輩にあたることから少々の混乱を招き、それよりも東条政権崩壊のために参謀本部・軍令部の次長2人制度そのものが崩壊してしまい、塚原は再び航空本部長の専任に戻った。
昭和19年(1944年)9月15日、塚原は内戦部隊の頂点にある横須賀鎮守府司令長官に任じられた。すでに同期の出世頭だった沢本が19年3月に大将に昇進し、南雲も同年7月にサイパン島での戦死して大将に昇進したこともあり、実直な塚原も内心は大将昇進を望み始めていた。
しかし、当時の海軍次官・井上成美中将は、井上本人も含めて戦時中の大将昇進を凍結する「大将不要論」を掲げていた。時に怒りも露わに井上を罵り、時に溜息混じりに嘆きつつ、塚原は大将への憧れを周囲に吐露していた。昭和20年(1945年5月1日、昇進を阻む最大の障害だった井上が海軍次官を降りたことによって、5月15日に井上と同時に大将に昇進。「最後の海軍大将」の枕詞がつく井上と同時に昇進したのだから、塚原もまた紛れもなく「最後の海軍大将」である。
しかし、塚原は栄誉の代わりに現職を降りなければならなかった。米内光政海軍大臣はかねてより、豊田副武大将を軍令部総長に、小沢治三郎中将を連合艦隊司令長官に据えて、統制の取れた状態で終戦を実現することを望んでいた。末期の連合艦隊司令長官は、支那方面艦隊海上護衛総隊・各鎮守府・各警備府をすべて指揮する「海軍総隊」の司令長官を兼ねていた。しかし、海軍には「後任者が先任者を指揮することはできない」とするルールが厳然として存在した。兵学校37期の小沢を海軍総司令長官に任じるには、1期先輩である塚原・横須賀鎮守府司令長官と沢本・呉鎮守府司令長官が大きな障害であった。塚原と沢本は説得を受け入れ、軍事参議官に身を引いた。(なお、同時に南東方面艦隊南西方面艦隊も海軍総隊から外され、大本営直轄部隊とされた。両方面艦隊の司令長官は、それぞれ小沢治三郎と海兵同期の草鹿任一大川内伝七であったが、両名とも小沢より先任であったからである。また、両方面艦隊の司令部が所在するラバウルルソン島は、内地との交通がほぼ途絶していて、草鹿・大川内両司令長官を転勤させる事がほぼ不可能だったからでもある〔防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書93 大本営海軍部・聯合艦隊〈7〉―戦争最終期―』 朝雲新聞社〕。)

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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