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マレー沖海戦 : ミニ英和和英辞書
マレー沖海戦[まれーおきかいせん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [おき]
 【名詞】 1. open sea 
海戦 : [かいせん]
 【名詞】 1. naval battle 
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 

マレー沖海戦 : ウィキペディア日本語版
マレー沖海戦[まれーおきかいせん]

マレー沖海戦(マレーおきかいせん)、別名:マレー洋作戦(マレーようさくせん)は、第二次世界大戦及び太平洋戦争の初期の1941年12月10日マレー半島東方沖で日本海軍の航空部隊(一式陸攻九六式陸攻)とイギリス海軍東洋艦隊の間で行われた戦闘である。
日本軍はイギリス海軍が東南アジアの制海権確保の為に派遣した戦艦2隻を撃沈し、この方面での初期作戦上で大成功をおさめた。また、当時の「作戦行動中の新式戦艦航空機で沈めることはできない〔作戦行動中ではなく停泊中ならばタラント空襲(1940年11月11日)や真珠湾攻撃(1941年12月7日)がある。〕〔1941年4月23日にドイツ空軍はサラミス湾空襲で作戦行動中のギリシャ戦艦キルキスレムノスを撃沈している。ただし、両艦とも旧式化して練習戦艦となっていた。〕」との常識を覆した〔「写真週報200号」p.9〕。当時の世界の海軍戦略である大艦巨砲主義の終焉を告げる出来事として海軍史上に刻まれている〔#ウエールス最後p.17〕。
== 背景 ==

=== 彼我の情勢 ===
1930年代の極東に対するイギリスの基本防衛計画は、来襲する敵(日本軍)をシンガポール要塞で防御し、その間に主力艦隊を回航して制海権を得ようというものだった〔#主力艦隊シンガポールへ59頁〕。幾度かの計画変更の後、1941年4月にはアメリカ・イギリス・オランダの間で協定が結ばれ、アメリカは艦隊を派遣して地中海のイタリア艦隊を抑制し、イギリスは東洋艦隊を極東に派遣するという方針を確認する〔#主力艦隊シンガポールへ67頁〕。
ウィンストン・チャーチルイギリス首相・国防相キング・ジョージ5世級戦艦デューク・オブ・ヨークレナウン級巡洋戦艦1隻、空母1隻の派遣を提案したが、海軍大臣は反対した〔#主力艦隊シンガポールへ78頁〕。イギリス軍海軍当局は、極東での日本の脅威に対応するためにネルソン級戦艦2隻、リヴェンジ級戦艦4隻、空母ハーミーズアーク・ロイヤルインドミタブルを送る計画であり、新鋭のキング・ジョージ5世級戦艦2隻は、ドイツ海軍ビスマルク級戦艦ティルピッツの出撃に備えてイギリス本国のスカパフローから動かすつもりはなかった〔#主力艦隊シンガポールへ79頁、#須藤、198211-12頁〕。これに対しチャーチルは高速戦艦を中心とした遊撃部隊を送って抑止力とすることを強く主張する〔#豊田、1988179頁、#須藤,198212-13頁〕。チャーチルは大和型戦艦の存在を気にかけていたという〔#ウエールス最後p.10〕。
最終的に、キング・ジョージ5世級の一艦であるプリンス・オブ・ウェールズレナウン級巡洋戦艦レパルス、空母インドミタブル、護衛の駆逐艦エレクトラエクスプレスエンカウンタージュピターからなるG部隊が編成された〔#主力艦隊シンガポールへ79頁〕。
プリンス・オブ・ウェールズは10月23日にスカパフローを出港し、11月16日南アフリカのケープタウン、セイロン島を経て1941年12月8日の太平洋戦争開戦直前の12月2日シンガポールのセレター軍港に到着した〔#豊田、1988184-185頁、#須藤,198217頁〕。プリンス・オブ・ウェールズはマレー駐屯陸軍司令官アーサー・パーシバル中将に出迎えられ、各国報道陣に公開されてイギリス連邦諸国民に安心感を与えた〔#主力艦隊シンガポールへ82-83頁、#須藤,198218頁〕。その後、G部隊からZ部隊に改称された。
その一方、空母インドミタブルは11月13日にジャマイカ島近海で座礁事故を起こし、合流できなかった〔#主力艦隊シンガポールへ81頁、#須藤,198213頁〕。かわりに小型空母のハーミーズの合流が決定したが、ハーミーズはダーバンで修理中のため合流できなかった〔#主力艦隊シンガポールへ81頁、#須藤,198213頁〕。フィリップス提督は自軍の戦力に不安を感じ、リヴェンジ級戦艦リヴェンジロイヤル・サブリンクイーン・エリザベス級戦艦ウォースパイトを12月20日頃までに派遣するよう希望している〔#主力艦隊シンガポールへ85頁〕。航空機に関してイギリス軍参謀本部は「日本軍機とパイロットの能力はイタリア空軍と同程度(イギリス軍の60%)」と想定し、マレー防衛計画に336機の配備を決定したが、実際には半数程度しか配備されていなかった〔#主力艦隊シンガポールへ63-65頁〕。これはチャーチル首相がソ連に大量の航空機を供給していたからである〔#主力艦隊シンガポールへ72-73、183頁〕。
日本軍はイギリス東洋艦隊の実情を把握しており、また対策をとっていた。12月7日、シンガポールの北東約300kmにあたるアナンバス諸島とマレー半島東岸のチオマン島の間に特設敷設艦辰宮丸が機雷を敷設、さらに第四・第五潜水戦隊の潜水艦12隻が散開線を構成して哨戒していた〔#豊田、198875頁、 #須藤,19829頁〕。宇垣纏連合艦隊参謀長は「ウェールズをやっつけたら、次はジョージ5世でも6世でも良い」と陣中日誌「戦藻録」に記録している〔#戦藻録(九版)26頁〕。実際に日本軍は松永貞市少将の第二十一航空戦隊(美幌航空隊 ツドウム基地:九六式陸上攻撃機27、元山航空隊 サイゴン基地:九六陸攻27)を南方に進出待機させ、新たに鹿島航空隊の一式陸上攻撃機54機を配備してイギリス東洋艦隊を待ちうけていた〔 #須藤,1982 9頁、#ウエールス最後p.3〕。12月8日の早朝、ハワイ真珠湾攻撃より70分早く、日本軍はタイ国の国境に近いマレーコタバルに陸軍部隊を上陸させた(大本営もこのコタバル上陸をもって、対米英への宣戦を布告したと報じた)。この部隊は、マレー半島を南下してイギリスの極東における根拠地、シンガポールを攻撃予定であった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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