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土肥修平 : ミニ英和和英辞書
土肥修平[どい しゅうへい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [つち]
 【名詞】 1. earth 2. soil 
: [こえ]
 【名詞】 1. manure 2. night soil 3. dung 4. fertiliser 5. fertilizer 
: [たいら, ひら]
 【名詞】 1. the broad 2. the flat 3. palm

土肥修平 : ウィキペディア日本語版
土肥修平[どい しゅうへい]

土肥 修平(どい しゅうへい、安政5年9月19日1858年10月25日) - 昭和20年(1945年7月3日)は、日本のきよめ派巡回伝道者脩平とも表記する。
==生涯==
幼名は儀次郎で次郎である。修平は土肥家12代当主にあたる。備前岡山藩土肥典膳〔(番頭筆頭として4,200石を領す)〕の長男、生母はお文〔(備中足守藩主木下淡路守の息女)〕。弟に土肥貞次がいる。長女は良子〔(賛育会病院院長河田茂の妻)。修平は源頼朝の重臣土肥実平の子孫だが、爵位を辞退した。〕幼少時は備前藩の普通学校に学び、藩儒石野精吉、家儒小山敬容より教えを受けた。13歳で京都今出川の大学校に遊学。平田鐵胤、廣瀬範次、渡邊五十丸に学ぶが1年で大学校廃止となり帰国。再び藩の普通学校に学んだ。
1873年(明治6年)に神戸でアメリカン・ボード〔(日本基督組合教会の母体になる)〕の宣教師D・C・グリーンデビスの英学校に入学。毎朝英語の聖書講義を聞く。キリスト教との出合いはここに始まる。      
1893年(明治25年)東京市木挽町バプテスト教会で浸礼を受け教会員となる。直後基督教書類会社に入社する。直接献身するために退職する。1894年(明治27年)頃から笹尾鉄三郎松野菊太郎御牧碩太郎と土肥を加えた6人で、ちいさき群1890年サンフランシスコ在住の日本人の間にリバイバルが起き、笹尾鉄三郎河辺貞吉秋山由五郎松野菊太郎木田文治、東ヶ崎菊松、伴新三郎、森永太一郎、上田恭輔らが回心する。1891年(明治24年)に、彼らは内村鑑三不敬事件をアメリカで聞いて日本の教会への危機を感じ、日本宣教にのために帰国し小さき群を結成した。〕を結成して、東京市桜田本郷町の一軒屋で共同生活を始め伝道活動をする。
1895年(明治28年)頃にウースターとスメルサー宣教師にB・F・バックストンに会うように勧められ、大阪でバックストンに会う。小さき群はバックストンの勧めで松江のバックストンの元で修養をすることになった。土肥らは東京に家族を残して、笹尾鉄三郎、河辺貞吉らと松江に行きバークレー・バックストンの元松江の奥谷で家を借りて、共同生活をしてバッストンの元で、半年間修養をする。
1897年、同胞教会に移り、本所区横綱町の同胞教会を支援する。1898年、同胞教会を辞し、万国警官ミッションを支援。
バックストンの紹介で、新橋教館の主任として働き始め、東京各地で伝道を開始した。この間教師試験を受けるが失敗し伝道師試補となった。しかし、彼の立場から按手は必要とされ、各派の協力伝道会で各派の教役者から按手を受け、マルチ教派の正教師となったという逸話がある。最終的に聖公会も脱退し自給伝道者となる。後に、東京渋谷に聖シオン会堂を建てて、そこを中心に全国を巡回伝道した。
元文部大臣の森戸辰男ら各界の重要人物が土肥を慕って集まってきた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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