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吉川晃司 : ミニ英和和英辞書
吉川晃司[きっかわ こうじ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [かわ]
 【名詞】 1. river 2. stream 

吉川晃司 : ウィキペディア日本語版
吉川晃司[きっかわ こうじ]

吉川 晃司(きっかわ こうじ、1965年8月18日 - )は、日本ミュージシャンシンガーソングライター俳優。本名同じ。
広島県安芸郡府中町出身。自身設立の所属事務所、株式会社アクセルミュージックエンターテイメント代表取締役社長。身長182cm。既婚。
1984年シングルモニカ」で歌手デビュー。「LA VIE EN ROSE」、「KISSに撃たれて眠りたい」、「VENUS 〜迷い子の未来〜」や布袋寅泰とのユニット、COMPLEXでの「BE MY BABY」などのヒット曲で知られる。デビュー当時は映画に多数出演。一時俳優業からは遠ざかっていたが、2000年の『漂流街』出演以降、しばしば取り組むようになった。
== 略歴 ==

* 吉川の元の実家は原爆投下まで、現在の広島市中心部、原爆ドーム元安川を挟んで真向かいの場所で〔広島市中島本町。〕料亭を営んでいた〔#愚pp.137〕〔『スポーツ報知』、2011年8月7日28面〕〔吉川晃司×小林武史 「大事なのは反応していく力」 - エコレゾ ウェブ 〕。原爆投下1か月前に疎開し難を逃れたが〔『24時間テレビ33 愛は地球を救う日本テレビ系、2010年8月29日放送での吉川の言及。〕、投下直後に父親は入市したため、入市被爆が認められ吉川自身も被爆二世に当たると言う〔〔〔朝日新聞デジタル:(核なき世界へ)使命感じ もがき歌う - 社会 〕。父親は若い頃、京都太秦で大部屋俳優をしていたが〔「阿川佐和子のこの人に会いたい」 第919回『週刊文春』2012年4月12日号、pp.134-138〕、家業を継ぐため俳優を諦め板前になったという経緯を持つ。吉川が幼い頃、店が火事になり廃業し、その後喫茶店の経営やタクシー運転手・管理職などをした。

* 府中町立府中小学校出身(宇梶剛士も2年まで在学で先輩、竹原慎二は後輩になる〔『仮面ライダー』撮影で山本太郎、吉川晃司にビビってワキ汗止まらず!
府中町 3人 組じゃ|竹原慎二 オフィシャルブログ-竹原慎二はブタっ鼻(2010-01-24)
宇梶剛士オフィシャルサイト2009-03
平成18年第4回府中町議会定例会
〕)。修道中学校を経て修道高等学校二年時に中退〔〔吉川晃司―25年間追い続けた「路地裏の美学」 - PRESIDENT Online 〕。
* 広島の男子進学校である修道中学校時代から水球の選手として活躍し、修道高校時代には世界ジュニア水球選手権大会の日本代表。また2年連続全日本高校最優秀選手に選ばれたほどの逸材で、最年少日本代表としてイタリアエジプト遠征にも参加した〔【1984年3月】モニカ/吉川晃司 デビューからブレーク 自ら売り込んだ元五輪候補 〕〔TALKING MUSIC, LOVE MUSIC, - フジテレビZOO 〕〔一志治夫『40歳問題 年をとるのも悪くない』朝日新聞出版、2009年、pp.64-68〕。広島屈指の進学校である修道中学校を受験した理由は、「制服の袖の部分に2本の白線があり、それがカッコよかったから」と述べている〔。合格したものの授業についていけず、いきなり落ちこぼれたとメディアでも語っている。しかも、いざ入学するとその2本の白線で、修道中学校生だと判ってしまい、悪いことが出来なかったため、嫌いになってしまったそうである(入学後は、その白線を物と擦って消していたという)。
* 同じ水泳部だった酒井麿に誘われ〔#愚p.61頁〕ロックバンド(EIGHT CITYS FISH BAND/通称:はまちバンド)に加入〔【エンタがビタミン♪】昔のバンド名は「はまちバンド」、魚介食系男子・吉川晃司がさかなクンにライバル宣言! 〕、バンド活動も平行して行っていたが、佐野元春のコンサートを見て、カルチャーショックを受け音楽一本に絞る〔『宝島』1985年5月号、pp.6-8〕。「音楽の世界でビッグスターになる」とその後のサクセスストーリーを考えた吉川は、「まずはスカウトされること」と考えたが、田舎でスカウトされる筈も無く、シビれを切らして渡辺プロダクションに「広島にスゴい奴がいる、見に来ないと一生悔いを残す」などと自ら手紙を書き送りつけた〔〔〔【エンタがビタミン♪】吉川晃司伝説「デビューのきっかけは自作自演の手紙だった!」ってホント? 日刊ゲンダイ|佐村河内氏も…広島出身“著名”ミュージシャンが多いワケ 日刊ゲンダイ|佐村河内氏も…広島出身“著名”ミュージシャンが多いワケ 〕。なお、なぜナベプロかといえば「沢田研二アン・ルイスなどが当時所属していたのがナベプロで、ここがいいな」と言い(吉川本人の回想)、他のプロダクションは知らなかった〔『40歳問題 年をとるのも悪くない』pp.70-71〕。
* 渡辺プロの関係者が、高松松本明子を見に行った帰りに、本当に会いに来てくれて、その後の数度のオーディションを経てナベプロ入り〔。修道からは水球の推薦で慶應義塾大学特待生として入学できる道が開かれていたため、教師、両親や周囲から猛反対を受けた〔#愚pp.62-63〕。父親からは「芸能界ってのは猿まわしだ。お前は東京でになるのか」と言われたが、「いつか自分で動いてやる」と決意を固めた〔『昭和40年男』2013年6月号、pp.6-11〕。実際は高校を卒業してからという話だったが、吉川本人の「今すぐにでも」という話で、修道高校3年に上がる直前に中退して上京〔〔。自分だけが東京に呼ばれたと思っていたら、そういう人がたくさんいて、当初はスクールメイツと練習をこなす〔。すぐにデビューさせてもらえず、当時のマネージャーの部屋に居候。ダンスのレッスン代わりに新宿渋谷六本木のディスコで毎日踊り、当時最先端の音楽、ファッション、踊りを身につけた。しかしいつまでたってもデビューさせてくれないことに業を煮やし、社長室に直談判したところ渡辺晋社長に気に入られ、デビューへの運びとなった〔『40歳問題 年をとるのも悪くない』pp.74-75〕。
* 実際には渡辺プロは吉川を「10年に1度の逸材」とみなし、凋落していたナベプロの起死回生のため、社長自らが音頭をとってデビューのためのプロジェクトチームを編成するほどの力の入れようだった〔吉川晃司('09年10月号) - インタビュー | Rooftop 〕〔「吉川晃司がモニカでデビューした日」 | きょうは何の日 | おもいっきりDON! 〕。「ナベプロ帝国の興亡」軍司貞則著、文藝春秋(1995年)によると、その当時渡辺プロの金庫には3億円の現金しかなく、渡辺晋は30人ほどのスタッフとの会議において、その金で吉川を売り出す方法をひねり出せ、と迫った。映画と歌の同時デビューもナベプロの肝いりで実現した。吉川は渡辺晋の手掛けた最後のタレントになった〔『抱えきれない夢 : 渡辺プロ・グループ四〇年史』渡辺音楽文化フォーラム「渡辺プロ・グループ四〇年史」編纂委員会編、1999年、293頁〕。大澤誉志幸が「渡辺プロは総力を挙げて吉川晃司を売り出すから、お前にかける金はない」と、ナベプロのスタッフから言われたという逸話も残る〔『アサヒ芸能』2010年11月25日号、70-73頁。〕。
* 1984年2月1日シングル「モニカ」でデビュー〔吉川晃司デビュー30周年 - Musicman-NET 特集:吉川晃司 30th Anniversary Special|WOWOWオンライン 〕。この曲は、主演映画『すかんぴんウォーク』の主題歌でもあった。以降「サヨナラは八月のララバイ」、「LA VIE EN ROSE」、「ユー・ガッタ・チャンス」(オリコン3週連続1位)、「にくまれそうなNEWフェイス」(オリコン1位)、「RAIN-DANCEがきこえる」(オリコン4位)、「キャンドルの瞳」(オリコン2位)と立て続けにヒットシングルをリリースし、1984年の日本歌謡大賞最優秀新人賞、日本アカデミー賞新人賞など歌手と俳優の両部門で8つの新人賞を独占〔。翌1985年暮れにはNHK紅白歌合戦に出場した。
* またこの年の始めに、デビュー1年目では史上2人目の日本武道館公演を行った。1人目は原田真二(1978年7月24日〔Amazon.co.jp: 原田真二 OUR SONG and all of you 〜Live at 武道館 〕)。その他、初期に行われた学園祭コンサートで、体育館にある緞帳(どんちょう)にぶら下がり、緞帳をビリビリに破いてしまったことがある。その弁済金は1,000万円だったという。
* 1987年に発売したシングル「MARILYNE」は、当時の恋人である女優の石原真理子(石原真理)との恋愛実体験を歌詞にした曲であったことが判明〔『日刊ゲンダイ』、2006年12月5日5面、6日5面、8日21面〕。2006年に石原が暴露本ふぞろいな秘密』を発売した際に、石原の過去の13人の交際相手として名前が出され、石原は吉川を玉置浩二以外に「結婚をしてもいいかな」と意識したと書いた。吉川は事務所を通じて「交際をしていたのは事実。「MARILYNE」のプロモーションビデオには彼女も出演しているはずです」とコメントを出した〔。吉川本人が明石家さんまのラジオで、石原のことを「憧れの人」と呼び、「悲しいことや楽しいことも彼女とは憧れの形で実現出来る」と、石原の存在は吉川の理想であることを語った。
* ナベプロは芸能プロダクションであるため、歌だけでなくバラエティ番組にも出なければいけないが、当時はそれが嫌で、人前に出て笑うことは一切できなかった。そのため渡辺晋にいつも「独立させて下さい」とお願いしていた〔#愚pp.66-68〕。「インターナショナルで通用する映画を作りたいと思っている。その映画に出たら、独立させてやるから」と言われ、渡辺からは独立を承知してもらい1987年、日本・イタリア合作映画『シャタラー』に出演した。しかし撮影途中に渡辺が亡くなり、映画の内容も企画も大幅に変更されて、当初予定された物とは全く違う惨憺たる作品になってしまった〔。ガンの末期にあった渡辺の最期に近い頃の言葉は「吉川は元気でやっているか、イタリアで?」であったという。その言葉は胸にズシッと響き、毎年何度も足を運ぶ渡辺の墓参りでは、渡辺から叱咤激励されているような気がするという〔。
* 1988年に一時活動を停止した後、渡辺プロダクションから子会社独立と言う形で22歳のとき独立〔、マネージャーの河村嚴生が代表取締役社長のセブンスエンタープライズ所属になる。レコード会社を東芝EMIに移籍。
* 元BOØWY布袋寅泰とユニット「COMPLEX」を結成し、翌1989年4月にシングル「BE MY BABY」(トヨタ・セラのCM曲)をリリース〔【1989年4月】BE MY BABY/布袋&吉川の異色ユニット 一世を風靡 〕。COMPLEXは『BE MY BABY』を含め2枚のシングルと2枚のアルバムをリリースした(いずれもオリコンチャート1位を記録)後、1990年11月8日東京ドームのライブをもって活動を停止。ビジネス的なことにはまったく興味がなく純粋にロックがやりたかった吉川と、音楽を活動コンセプトやサウンドアプローチからビジネス面までトータルで捉える布袋との間に徐々に溝が生まれ、最後は飲み屋でのつかみ合いの喧嘩に発展して活動停止に至った。布袋、吉川はそれぞれ、当時の音楽雑誌のインタビューで「COMPLEXさえ組まなければ、少なくとも友人を失う事はなかった」とコメントしている。しかし、東日本大震災復興支援ライブを同じく東京ドーム2DAYSとして行い、21年ぶりに復活。待ちかねたファン約10万人が詰め掛けた(後述)。
* 1997年に東芝EMIから、元同社専務取締役である石坂敬一が代表取締役に就任したユニバーサルグループに移籍。しかしこの時期の音楽業界に吹き荒れた外資の嵐と変革の混乱の中で売上が低迷。その後2002年徳間ジャパンへ移籍。
* 1998年32歳のとき、個人事務所「アクセルミュージックエンターテイメント」を設立〔#愚p.178〕。前所属のセブンスエンタープライズで、会社スタッフによる会社資金の使い込みが発覚。事務所の空中分解という状況で、セブンスエンタープライズの音楽部門若手スタッフを引きつれ設立という経緯である。本人曰く「他所に世話になるなんて考えられなかったので、自分について来てくれる会社の若い連中もいたし、仕方なく自分で会社を立ち上げざるを得なかった。今では立ち上げて本当に良かったと思っている」。歴史書を読む面白さを知ったのもこの時から〔。ちなみにセブンスエンタープライズ俳優部門は金山一彦つみきみほ達で新たに立ち上げている。
* 「アクセルミュージックエンターテイメント」設立の際に、若い社員の前で「利益が出るまで、オレは家に帰らない!」と大見得を切ったため、スタジオにソファを入れてそこで暮らした。利益が出るのに7年もかかり、結局12年スタジオで暮らした〔。窓が無い地下室で湿気が多く、肺にカビが湧き頭の皮がむけるなど色んな体の箇所を病んだ〔。
* 1998年、自宅で知人と殴り合いになり、鼻骨および肋骨を骨折させる傷害容疑で、示談は成立していたが書類送検された。原因は、酒に酔った知人が吉川所有の尾崎豊の形見のギターを蹴った事による。謝罪会見では、前所属事務所セブンスエンタープライズの会社スタッフによる資金使い込み騒動の真っ只中でもあり、真実をありのままに述べられない状況下での謝罪会見になった。この会見で記者の「何発殴ったのか?」との質問に、一方的に殴ったわけじゃなく殴りあいになり、相手もボクシングの経験があると前置きした上で、「ワン、ツー、スリー?」と答える。この3発のパンチを打つ動作を客観的に再現しながら「こう、こう、こう、うん、3発殴った」「泥酔していたといわれているが違う。25%ぐらいの酒なら眞露2、3本くらいなら大丈夫」「僕はちょっと人より力が強いみたいで..」などと発言したシーンがTV放送で流された。プロを相手に、一発目から的確に拳を鼻に打ち込んで鼻骨を折り、二発目で急所の一つといわれる脇の下の肋骨を骨折させたことから、吉田豪らが吉川を“芸能界ケンカ最強”と推す切っ掛けとなった〔吉田光雄Twitter|worldjapan -
ゴッドタン・神の舌|2010/09/02(木)放送 | TVでた蔵 ゴッドタン・神の舌|2011/11/13(日)放送 | TVでた蔵 〕。
* 2006年にDJ TASAKAKAGAMIによるテクノユニットDISCO TWINSのアルバム『TWINS DISCO』にて「Juicy Jungle」「Thunder Storm」の2曲にゲストボーカルとして参加。また「Juicy Jungle」のPVにも出演した。このPVはSPACE SHOWER Music Video Awards 07でBEST IMPACT VIDEO賞を受賞。授賞式ではスペシャルゲストとして登場し、DISCO TWINSと共にライブパフォーマンスを行った。またDISCO TWINSとのユニット「DISCO K2 TWINS」を結成しシングル「Juicy Jungle」を発売した。
* 2009年のNHK大河ドラマ天地人』(主演:妻夫木聡)に織田信長役として出演。同年に、徳間ジャパンコミュニケーションズから古巣であったユニバーサルミュージックに移籍。また、『仮面ライダー×仮面ライダー W&ディケイド MOVIE大戦2010』に、主人公の師である鳴海荘吉(仮面ライダースカル)の役で出演。
* 2011年5月31日にファンクラブのページにて一般女性との結婚を発表。翌6月1日に、婚姻届を提出。二人の間には既に第一子も誕生しており、未婚の父であったことも明かした。
* 2012年12月10日、ワーナーミュージック・ジャパンへの移籍および同社にプライベート・レーベル「SAMURAI ROCK」を設立〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「吉川晃司」の詳細全文を読む




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