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北条砂丘 : ミニ英和和英辞書
北条砂丘[ほうじょう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [きた, ほく]
 (n) north
砂丘 : [さきゅう]
 【名詞】 1. sand dune 2. sand hill 
: [きゅう, おか]
 【名詞】 1. hill 2. height 3. knoll 4. rising ground 

北条砂丘 ( リダイレクト:倉吉平野#北条砂丘 ) : ウィキペディア日本語版
倉吉平野[くらよしへいや]

倉吉平野(くらよしへいや)は、鳥取県中央部の天神川流域に広がる沖積平野である。

==概要==

鳥取県には主要な平野部が3つある。
県の東部には鳥取平野がひらけており、鳥取市がある。西部には米子平野があって、米子市がある。倉吉平野は県の中央部にあって、倉吉市を中心とした経済圏(倉吉都市圏)がある。〔
これらの平野はいずれも山陰地方の典型的な地形をつくっている。中国山地に発する川が下流に沖積平野をつくり、海岸部に砂丘や砂州があり、潟湖を伴っている。鳥取平野の場合には千代川鳥取砂丘湖山池がこれに相当し、米子平野の場合には日野川弓ヶ浜中海がそれである。倉吉平野では、天神川、北条砂丘東郷湖がこれらにあたる。〔
鳥取平野は旧因幡国の主要地域となっていて、倉吉平野と米子平野が旧伯耆国の主要地域である。このため、倉吉平野を中心とする地域を「東伯耆」とも呼ぶ。旧伯耆国の国府は倉吉平野にあり、かつては山陰地方の政治・経済・文化の中心地域の一つだった。〔
;呼称
どの範囲を「倉吉平野」と呼ぶかには、大きく2通りある。
狭義では、「羽合平野」と「北条平野」を合わせたものが倉吉平野である。広義の倉吉平野には、これに「倉吉盆地」が加わる。
天神川は下流で三角州を作っていて、右岸を羽合平野、左岸を北条平野と呼ぶ。この2つの平野をあわせて倉吉平野と呼ぶ。海岸付近には、北条砂丘と呼ばれる砂丘帯が東西に伸びている。〔〔〔〔〔〔
天神川の中流域には扇状地の倉吉盆地があり、羽合平野、北条平野、倉吉盆地の3つをあわせて広義の倉吉平野と呼ぶ場合もある。〔〔〔〔
三角州である羽合平野・北条平野と、扇状地である倉吉盆地の境は、JR山陰本線が天神川を渡るあたりに相当する。鳥取県東部地域(旧因幡国)との境をなす山地を東伯山地と呼ぶ。〔〔〔
;天神川の名称
「天神川」を形成する主要な川は竹田川、小鴨川国府川である。かつてはこの3川が合流したあとの下流部分を「天神川」と呼んでいた。1965年(昭和40年)に河川法に基いて天神川一級水系に指定され、法律によって名称や範囲が定められた。これによって「天神川」の本流は竹田川と定められたため、「竹田川」は法律上の正式名ではなく「天神川」の本流となる。小鴨川と国府川はいずれも天神川の支流と定められている。〔〔〔
下流部分の「天神川」の名称は近世以降のものである。かつてこの川は東郷湖や橋津川に注いでおり、歴史的には川の右岸(東側)にあたる長瀬地域では「長瀬川」、左岸の北条地域では「北条川」と呼ばれていた。江戸時代に河道の大改修があり、今のようにまっすぐ海へ注ぐ形になった。このときに菅原道真を祭る神社の境内を掘削し、神社を移転したことから、この改修部分を「天神川」と呼ぶようになった。竹田川と小鴨川・国府川が合流せず、それぞれ別に海に注いでいた時期もある。〔〔
;地形の概要
一般に、中国地方では第四紀中国山地が曲隆したせいで、全般的に海岸部の平野が狭い。山陰地方では、冬に北西から強い季節風が吹く影響で、日本海側で砂州や砂丘が発達しており、その背後には潟湖(ラグーン)や沼沢地・後背湿地ができる。倉吉平野もこうした典型である〔
砂丘が形成される過程で、火山の噴火や中国大陸からの飛来塵による層が形成されたり、氷河期間氷期の海水面の上下動によって海没した際に海底で作られる地層が形成される。現在の砂丘にある砂の層の下を調べ、こうした地層や古砂丘を確認することで、砂丘の生成過程や年代を知る手がかりになり、沖積平野全体の生成史も推測できる。このため、これらの各層の研究は盛んである。〔
かつては平野全域が潟湖だったと考えられているが、天神川の沖積作用で埋め立てられていった。現存する潟湖として天神川右岸の羽合平野内に東郷湖がある。これは、大平山の尾根が北へ長く伸びていて、天神川の堆積作用が妨げられ、湖のまま残ったものである。左岸でも蜘ヶ家山などの裾野が入り組んでリアス状の入り江を形成していたため、その奥までは沖積作用が及ばずに池や湖のままだった。これらは近世に干拓されて水田地帯となった。〔
一級河川の中でも天神川は特に急流で、上流部の中国山地や大山の火山灰地を激しく浸食して大量の土砂を流した。その結果として沖積平野が形成されるが、流した土砂によって河道が狭まって何度も氾濫し、大きく流路を変えてきた。天神川、小鴨川、国府川や隣接する由良川などは、歴史的に大きく流路を変えて河川争奪をが繰り返してきたことが歴史的史料や伝承として残っており、地質調査や遺跡の考古的研究から、こうした伝承や記録が裏付けられている。〔〔〔
;地誌の概要
いまの鳥取県では、倉吉平野を中心とする商業圏は県内3位の規模である。かつて倉吉盆地には伯耆国の国府があり、古代にはこの地方の中心地の一つだった。倉吉盆地からはその頃の遺跡が多数発見されている。倉吉盆地の倉吉市は、江戸時代の城下町から近代に紡績業が発展し、倉吉都市圏を形成している。〔
北条平野や羽合平野はその頃からの農業地帯で、飛鳥時代に敷かれた条里制が今でも広範囲に残っている。これらの地域には山陰道などの古道が通っていたが、砂丘の影響で村が発展しにくく、大きな街道村へ発展することもなく、現代でも農業地帯となっている。近世以降に潟湖が干拓された地域では、古代の条里制とは異なる区割りがされており、古くからの水郷地帯と新田地域を区別することができる。〔〔
かつて、山陰地方や鳥取では縄文時代以前の遺跡・古墳に乏しいと考えられており、倉吉平野はその例外として旧石器時代から縄文前期の規模の大きい遺跡や稀少な出土品が発見されて注目を集めた。砂丘の砂の下からも古代から室町時代までの大きな集落跡が見つかっている。〔〔
;平野と砂丘の形成
かつては、現在よりも海面が高く内陸まで海だった。東側は馬ノ山や東伯山地に遮られ、海上には、玄武岩花崗岩の頂が孤島のように並んでいた。これが現在の茶臼山、石山、三輪山といった砂丘南部の高所になっている。この島を起点として前方に砂地が形成され、やがて繋がって砂州となり、外海と内海を隔てた。この頃の内海を「古北条湾」などと言い、現在の倉吉駅があるあたりの入り江を「海田湾」(現・倉吉市海田町周辺)、東郷湖は「東郷湾」などと言う。やがて川の沖積作用で古北条湾は埋め立てられていったが、山裾に遮られて沖積作用が及ばないあたりは潟湖として水域が残った。海岸では砂丘がさらに発達した。このほか、地形の隆起や沈降も関わったと考えられているが、詳しくはわかっていない。〔〔〔

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「倉吉平野」の詳細全文を読む




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