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佐伯和司 : ミニ英和和英辞書
佐伯和司[さえき かずし]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [さ]
 【名詞】 1. help 
: [はく]
 【名詞】 1. count 2. earl 3. eldest brother 4. uncle 5. chief official 
: [わ]
 【名詞】 1. (1) sum 2. (2) harmony 3. peace 

佐伯和司 : ウィキペディア日本語版
佐伯和司[さえき かずし]

佐伯 和司(さえき かずし、1952年6月5日 - )は、広島県広島市出身の元プロ野球選手投手)。
1975年広島東洋カープ初優勝時の主力投手として知られる。
== 来歴・人物 ==

=== プロ入り前 ===
山口県玖珂郡美和町(現:岩国市)生まれ。のちに広島で大手タクシー会社の代表取締役を務めた事業家の父と家族で、小学校時に広島市国泰寺町(現:中区国泰寺町)に移る。
広島市立国泰寺中学校を経て、1968年広陵高校に入学〔1年時の監督は三原新二郎。また島田洋七(野球部には在籍せず)は3学年上、同期に三迫正廣ら、巨人・山下哲治スカウト部長、角川博(軟式)は1学年下。〕。1年秋からエースとなり翌1969年夏の甲子園に出場。1回戦で春夏連覇を狙った三重を打ち合いで降したものの、八重樫幸雄が四番を打っていた仙台商に2回戦で敗れた(1-4)。
徐々に球威が増し、150km/h近い剛速球と、切れのいいカーブシュートを武器に三振の山を築く。投げれば完封、大半が二桁奪三振。「一桁だと気分が悪かった」と豪語するビッグマウス。重い剛球で高校3年間の公式戦で浴びた本塁打はわずか2本だった。相手チームに「バントするのも恐い」と言わせ、箕島島本講平1970年南海ドラフト1位)、岐阜短大付湯口敏彦(同年巨人1位)と共に高校三羽烏と騒がれた。
1970年春の選抜に出場。2試合連続完封し、準決勝で島本の箕島と当たった。箕島のしつこい攻撃と味方の失策もあり0-3で敗れる。箕島は優勝し、かわいいマスクの島本は前年の太田幸司に続いて甲子園のアイドルとなった。一方、向こうっ気が強かった佐伯は、試合後のインタビューで「今日の審判は(ストライク・ボールの判定が)辛い」とプロの投手のような発言をしてしまい世間の反感を買った。同年夏は県予選準決勝の広島工戦で18奪三振を記録。決勝では中学生の時からのライバルである広島商日高晶彦投手と投げ合い、延長10回の熱闘の末に敗退、甲子園出場を逸した。 
この年秋のドラフト会議では目玉となり、まだメジャーリーグが身近でない時代、サンフランシスコ・ジャイアンツのスカウトも来日した程だった。これは鶴岡一人キャピー原田を通じて佐伯をアメリカに留学させた上で、アメリカのプロ野球でプレーさせようとしたものだったが、当時の鈴木龍二セ・リーグ会長の反対でこれは実現せず〔キャピー原田著『太平洋のかけ橋 戦後・野球復活の裏面史』ベースボール・マガジン社、1980年、p149、150〕、同年ドラフト1位で地元広島入団(金城基泰らが同期)、地元出身のスター選手として大いに騒がれた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「佐伯和司」の詳細全文を読む




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