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鶴岡一人 : ミニ英和和英辞書
鶴岡一人[つるおか かずと]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [つる]
 【名詞】 1. crane (bird) (Gruidae family) 
: [こう, おか]
 【名詞】 1. hill 2. height 3. knoll 4. rising ground
: [いち]
  1. (num) one 
一人 : [ひとり, いちじん]
 【名詞】 1. one person 
: [ひと]
 【名詞】 1. man 2. person 3. human being 4. mankind 5. people 6. character 7. personality 8. true man 9. man of talent 10. adult 1 1. other people 12. messenger 13. visitor 1

鶴岡一人 : ウィキペディア日本語版
鶴岡一人[つるおか かずと]

鶴岡 一人(つるおか かずと(かずんど)、1916年7月27日 - 2000年3月7日)は、広島県呉市東二河通(現:西中央)出身〔『私の履歴書 プロ野球伝説の名将』、日本経済新聞社、2007年、13頁、同書著者略歴(鶴岡 一人 ― つるおか かずと |日本経済新聞出版社 )。〕 のプロ野球選手内野手)・監督野球解説者1946年から1958年までは「山本 一人(やまもと かずと)〔日刊スポーツ連載《LEGEND伝説》栄枯盛衰~消滅球団の光と影⑥(南海編①)2010年4月6日5面〕」。
愛称は鶴岡親分またはツルさん。初代ミスターホークスドン鶴岡とも呼ばれた。南海ホークスの黄金時代を築いた名監督で、日本プロ野球史を代表する指導者の一人。史上最多勝監督殿堂一覧|財団法人野球体育博物館 鶴岡一人 〕。
== 経歴 ==

=== 現役時代 ===
1年先輩である浜崎忠治浜崎真二の弟)と仲間になり野球を始める。同学年の藤村富美男は呉市の隣の小学校で当時からのライバルであった。鶴岡は広島商業学校に進学し、に遊撃手として第8回選抜中等野球大会で全国制覇、の第10回選抜大会はエース兼4番打者としてベスト4。1931年、選抜優勝校に特典として主催の大阪毎日新聞社から与えられたアメリカ遠征に参加し、ハイスクールやノンプロのチームと対戦した。カリフォルニア州サンタマリアで対戦したハイスクールには、戦後に親交を結ぶことになる日系2世のキャピー原田がおり、原田は「印象に残る、とてもうまいプレーヤーだった」と後に振り返っている〔永井良和・橋爪紳也『南海ホークスがあったころ』(紀伊國屋書店、2003年)P51 - 52。〕〔ジーン・スタンカ・池井優『熱投スタンカを憶えてますか』中央公論新社、1985年、109-112、175-176頁〕〔この海外遠征は、主催新聞同士の競争から、選抜優勝チームを夏の全国中等学校野球選手権大会に出させないための方策であった。原田の回想は著書『太平洋のかけ橋』からの引用。〕。 
法政大学では1年からレギュラー、華麗な三塁守備六大学史上最高と言われ、法政初の連覇に貢献するなど花形スター・主将として活躍。新聞の「法政鶴岡」という見出しの大きさは、始まったばかりの職業野球の球団名の活字の10倍はあったという〔永井良和『ホークスの70年 惜別と再会の球譜』ソフトバンククリエイティブ、2008年、38-47、110頁〕。リーグ通算88試合出場、331打数99安打、打率.299、2本塁打、56打点。首位打者1回。
、大学卒業と共にプロ野球入団の「第1号」選手として南海軍に入団〔〔井上章一『阪神タイガースの正体』、太田出版、2001年、200-204頁〕〔それまでも「大学出身」の選手がプロ入りしたこともあったが、大半は中退。卒業した者もいったんは実業団を経由していた。大学卒業と同時に入団した者は一人もいなかった(別冊週刊ベースボール冬季号「さらば!南海ホークス〜永久保存版」、ベースボール・マガジン社、1988年、62頁)。〕。これを知った法大野球部OB会は「卒業と同時に職業野球に入るとは何事、野球芸人になるつもりか。母校の恥だ。除名せよ」と声が出た〔別冊週刊ベースボール冬季号「さらば!南海ホークス〜永久保存版」、ベースボール・マガジン社、1988」、62頁〕。鶴岡にプロ野球入りを決意させたのは「軍隊にとられたら生きて帰れるかどうか分からない。それまでは好きな野球をやりたい」という思いであった〔。川上哲治も同様の理由でプロ野球入りしており、「徴兵=戦死」という暗い予想がなければ、見下されていたプロ球界には人材が集まらなかった可能性が高い。プロ野球史は戦争による抑圧という陰惨な時代を迎えようとしていたが、皮肉な結果論として戦争がプロ野球界へ貢献した側面もあった〔。
卓越した統率力から入団1年目にして主将に抜擢され、3番・三塁手として同年に本塁打王を獲得。10本塁打は戦前の最多記録である。またノーステップで一塁に送球するプレーが人気を集めた。ノーステップは法大時代に肩を痛めたため、極端な前進守備を敷いて素早く送球する方法を選んだためである〔『日本プロ野球偉人伝 1934-1940編プロ野球誕生期の37人の豪傑たち』、ベースボール・マガジン社、2013年、100-101頁〕。鶴岡の人気は「職業野球選手中の随一」といわれ、当時は珍しかった女性の野球ファンをも増やした。六大学のスターがプロ野球に転じることで人気を広げていく。その先駆けとなったのが鶴岡だった〔。
1940年に召集されて陸軍高射砲連隊へ入隊し、5年間従軍〔#監督列伝、106-107頁。〕。日本内地を転々とした後、終戦間際の1945年8月には特別攻撃隊の出撃地となった鹿児島県知覧町(現:南九州市)の陸軍知覧航空隊機関砲中隊長を務め、低空で飛んでくる米軍機を撃ち落とした〔〔「さらば!南海ホークス」、71頁〕。この時に長として200人の部下を率いた経験がのちの指揮官哲学を生んだといわれている〔「さらば!南海ホークス」、74頁〕。この間1944年に結婚、同時に妻の家へ婿入りし山本に改姓した〔鶴岡一人が養子となり「山本一人」であった時 サインは「山本」と書いていたか 〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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