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伊勢貞親 : ミニ英和和英辞書
伊勢貞親[いせ さだちか]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [はずみ]
 【名詞】 1. (1) bounce 2. spring 3. rebound 4. (2) momentum 5. inertia 6. (3) spur of the moment

伊勢貞親 : ウィキペディア日本語版
伊勢貞親[いせ さだちか]

伊勢 貞親(いせ さだちか)は、室町時代中期の武士室町幕府政所執事である。桓武平氏の流れを汲む伊勢氏。父は伊勢貞国、母は蜷川親俊の娘。弟に貞藤。子に貞宗
== 生涯 ==
8代将軍足利義政を幼少の頃から養育し、嘉吉3年(1443年)には管領畠山持国の仲介で義政と擬似父子関係を結んだ。享徳3年(1454年)に家督を相続、同年に発生した土一揆への対処として考案された分一銭制度の確立などを通じて幕府財政の再建を成功させ、義政の信任を得た。また、政所執事には就任していなかったが(文安6年(1449年)から二階堂忠行が在任)、義政から収入と支払の権限を与えられ幕府財政を任され、政所の裁判に携わる官僚の人事権や将軍の申次衆も一族で固めて政所の実権を握り、奉行衆番衆奉公衆の指揮権も任され幕府の政治・軍事も掌握、親政を目指す義政にとって無くてはならない存在となっていった〔桜井、P245 - P247、P292 - P296、石田、P135 - P141、吉田、P320 - P322。〕。
康正元年(1455年)頃から義政の御内書に副状を添えるようになり、それまでは管領細川勝元が発給していた副状に代わり義政の御内書発給数が上回り、幕府奉行人の管轄が管領から貞親(将軍)へ移動、奉行人奉書または御内書を通して義政の親政を支え勝元を牽制、軍事でも義政の補佐役を務め義政との会談及び方針を決定する重要な役割を任された。寛正元年(1460年)に享徳の乱で混迷していた関東諸大名の取次ぎも任され、同年に二階堂忠行に代わり政所執事に就任し、禅僧の季瓊真蘂らと共に政務の実権を完全に握った。
寛正4年(1463年)、義政の母日野重子が死去したことを口実に反逆者となっていた斯波義敏畠山義就を義政を通して赦免させ、寛正6年(1465年)に勝元が敵対した大内政弘討伐を要請した時は、表向き義政が政弘討伐命令を下す一方で裏から政弘を支援、勝元との対立が激化した。寛正6年(1465年)に義政の正室日野富子が男子(足利義尚)を産むと義尚の乳父となる。
この頃問題となっていた斯波氏の斯波義敏と斯波義廉の家督争い(武衛騒動)にも介入し、文正元年(1466年)に貞親らは義政に進言して斯波家家督を義敏に与えさせるが、山名持豊(宗全)や義敏派であった勝元らが義廉支持に回り、貞親と敵対した。また、義尚の誕生によって、次期将軍に決定していた義政の弟足利義視と義尚の間で将軍後継問題が発生すると、義尚の乳父であった貞親は義視を排斥するために義視謀反の噂を流すが、義視が勝元を頼ると讒訴の罪を問われ近江、次いで伊勢へ逃れた。同時に真蘂や義敏、赤松政則ら貞親派とされた者も失脚した。これを文正の政変と言う〔桜井、P301 - P303、石田、P191 - P194、吉田、P322 - P332、P335 - P336。〕。
応仁元年(1467年)、勝元率いる東軍と宗全率いる西軍の間で戦端が開かれ応仁の乱が起こると、義政に呼び戻され6月に伊勢から上洛、翌応仁2年(1468年)閏10月に正式に復帰した。しかし復帰に反発した義視が同年11月に出奔して西軍に擁立され、戦乱が長期化する事態となった(弟の貞藤も西軍に鞍替えした)。また、復帰したとはいえかつてのように重要任務を任されることはなく、西軍の部将朝倉孝景の帰順交渉を担当したこと以外に目立った活動は無かったが、文明3年(1471年)4月に万里小路春房とともに蜂起を企てたと疑われて春房とともに近江の朽木貞綱(貞綱室は春房の妹)の元に亡命して出家、そのまま引退した(交渉は浦上則宗に交代、この騒動の背景に反義視の動きに関わる公家層も巻き込んだ蜂起計画があったとする説もある)、2年後の文明5年(1473年)に若狭で死去した。享年57〔桜井、P315 - P317、石田、P211、P239 - P241、P257 - P261、P265、井原、P239、P295 - P296 。〕。
応仁の乱の原因を作った1人とも言われ、『応仁記』では賄賂を横行させ淫蕩に感け、幕府の治世を腐敗させた悪吏として指弾されている他、『応仁別記』という本には「世の中は 皆歌読に 業平の 伊勢物語 せぬ人ぞなき」という落首が伝わる。一方で、文正の政変を扱った『文正記』も佞臣として描きつつも、最後に身を退いたことで大乱を回避できたことを指摘して実は忠臣であったのではないか?と最終的には貞親に同情的な評価をしている〔瀬戸祐規「『大乗院寺社雑事記』『文正記』に見る長禄・寛正の内訌」(初出:大乗院寺社雑事記研究会 編『大乗院寺社雑事記研究論集 第三巻』(和泉書院、2006年)/木下聡 編著『シリーズ・室町幕府の研究 第一巻 管領斯波氏』(戒光祥出版、2015年)ISBN 978-4-86403-146-2)〕。また、貞親ら側近勢力こそが義政の政権運営を支えた中核的存在であり、文正の政変による貞親ら側近勢力の排除が義政の政務放棄の一因となったとする見方もある。貞親が逼塞した期間に義政は御内書を発給できず、復帰後も勝元ら細川一族が幕府に無断で軍事関係の書状を内外に発給したため幕府の軍事権限は縮小、応仁の乱後に幕府の権力が低下するきっかけとなった〔吉田、P336 - P342、P371 - P373。〕。また、子の貞宗に対して『伊勢貞親教訓』を残した。
ちなみに伊勢新九郎盛時(北条早雲)は、貞親の同族備中伊勢氏の当主で貞親と共に幕政に関与した伊勢盛定の嫡男(一説には盛定の妻は貞親の姉妹であり、貞親と盛時は伯父と甥の関係であるもいう)とされ、貞親の推挙によって義視に仕えたと言われている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「伊勢貞親」の詳細全文を読む




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