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文正の政変 : ミニ英和和英辞書
文正の政変[ぶんしょうのせいへん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ぶん]
 【名詞】 1. sentence 
: [ただし, せい, しょう]
 【名詞】 1. (logical) true 2. regular 
: [せい, まつりごと]
 【名詞】 1. rule 2. government 
政変 : [せいへん]
 【名詞】 1. coup 
: [へん]
  1. (adj-na,n) change 2. incident 3. disturbance 4. strange 5. flat (music) 6. odd 7. peculiar 8. suspicious-looking 9. queer 10. eccentric 1 1. funny 1

文正の政変 : ウィキペディア日本語版
文正の政変[ぶんしょうのせいへん]
文正の政変(ぶんしょうのせいへん)とは、文正元年(1466年9月6日室町幕府8代将軍足利義政の側近伊勢貞親季瓊真蘂らが諸大名の反発で追放された事件である。この政変で義政は側近を中心とした政治を行えなくなり、残った諸大名は応仁の乱を起こしていく。
== 経過 ==

=== 背景 ===
将軍足利義政は将軍の専制政治を確立しようとして乳父で政所執事伊勢貞親と鹿苑院蔭涼軒主季瓊真蘂を登用、諸大名の介入を行った。享徳3年(1454年)に畠山持国の息子義就と甥の政久が争い細川勝元山名宗全が政久を支持した時、義政は義就を支持、宗全を隠居させた隙に義就が上洛、翌年の持国死去の家督相続を認め近臣に取り立てた〔義就支持の裏には、勝元・宗全への対抗策として畠山氏の抱きこみを意図したとされる。しかし、このお家騒動で畠山氏は2つに割れて両派への対抗が難しくなった。桜井、P283 - P285、石田、P109 - P111。〕。また、不知行地還付政策寺社本所領の回復及び守護と国人の繋がりの制限を図る一方、関東で反抗した古河公方足利成氏討伐のため越前尾張遠江守護斯波義敏奥州の大名に動員を命じた。
ところが、それらは頓挫していった。義就は義政の意向と称して政久追討をしながら大和の軍事介入と土地の横領をしたため義政の信頼を失い、宗全が復権した影響もあって寛正元年(1460年)に家督を政久の弟政長に替えられ吉野に没落、勝元の支持を受けた政長は寛正5年(1464年)に勝元の後任の管領に就任した。関東の派遣も義敏と執事の甲斐常治が越前で長禄合戦を起こし、義敏が命令に従わず越前の常治派討伐を優先したため、義政は義敏を追放、義敏の息子松王丸を当主に交替させた(武衛騒動)が、斯波軍が関東に出陣しなかったため奥州の諸大名の信用を失い、以後奥州大名は幕府の命令に従わず関東に出陣しなかった〔原因として、不知行地還付政策と常治の越前支配によって所領と荘園代官職を追われた越前国人達と義敏が結託したことが挙げられる。結果、義敏は義政の和睦歓告にも従わず常治派と交戦、家督を追われた。桜井、P296 - P301、川岡、P108 - P109、石田、P147 - P157、P160 - P165。〕。
義政は相次ぐ政策の失敗により方針を転換、派閥の結成を目論んだ。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「文正の政変」の詳細全文を読む




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