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中島健蔵 : ミニ英和和英辞書
中島健蔵[なかじま けんぞう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [なか]
 【名詞】 1. inside 2. middle 3. among 
中島 : [なかしま, なかじま]
 【名詞】 1. island in a pond or river 
: [しま]
 【名詞】 1. island 
: [けん]
 【名詞】 1. health 2. strength 3. stick-to-itiveness 
: [そう, くら, ぞう]
 【名詞】 1. warehouse 2. cellar 3. magazine 4. granary 5. godown 6. depository 7. treasury 8. elevator

中島健蔵 : ウィキペディア日本語版
中島健蔵[なかじま けんぞう]

中島 健蔵(なかじま けんぞう、1903年明治36年)2月21日 - 1979年昭和54年)6月11日)は、フランス文学者文芸評論家ヴァレリーボードレールなどを翻訳紹介する一方、当時まだ無名だった宮澤賢治の作品に光を当て、戦後はいわゆる進歩的知識人の一人として反戦平和運動に貢献すると共に、日本文芸家協会の再建や著作権保護、日中の文化交流に尽力した。中国切手の世界的なコレクターとしても有名である。
== 来歴・人物 ==
心理学者の中島泰蔵の長子(一人っ子)として東京市麹町区(現・東京都千代田区)に生まれた。父・泰蔵はハーヴァード大学ウィリアム・ジェイムズに教えを受け、帰国後は東京専門学校(後の早稲田大学)で講師を務めた。
1909年東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)入学。同級に市原豊太、菊池正士、坪井忠二。少年時代は自然科学に惹かれていたが、1914年、父宛に贈られた親類前田夕暮(泰蔵の姪を妻に持つ)の第三歌集『生くる日に』を読んで感銘を受け、短歌を創作して夕暮に送るも黙殺された。また、豆本「アカギ叢書」でイプセンシェンキェヴィッチを読む。
1915年、東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)に入学する。附属中学の同級生には、下村三郎(元最高裁判所判事)、市原豊太(元獨協大学学長)、菊池正士(ドイツ文学者)、坪井忠二(東京大学名誉教授)などがいた。
旧制中学時代サッカーを始め、中島が入部をすすめた高山英華とともに全国優勝を経験〔 第42回NSRI都市・環境フォーラム, 2011年〕。大学時代もア式蹴球部(サッカー部)に在籍した。旧制中学で後輩だった高山英華を大学進学後に部に誘ったのも中島であった。
この頃、川田順若山牧水窪田空穂短歌に心酔。小説家では国木田独歩夏目漱石森鴎外有島武郎芥川龍之介などに傾倒していった。
1919年、父を結核で亡くした。中島はこのころ、附属中の1年後輩である諸井三郎を中心とする音楽グループに接近することになる。詩人の菊池香一郎(こういちろう)の弟の菊池武彦の影響で仏文学に関心を持つ。1920年東京高師附属中学校を卒業、1921年まで同校の補習科に通った。
第一高等学校理科甲類を二度受験して失敗し、1921年旧制松本高等学校文科乙類入学。ドイツ語を第一外国語として学ぶクラスであることに飽き足らず、フランス人神父セスラン(Gustave Cesselin)のもとでフランス語の個人教授を受けた。
1925年、旧制松本高等学校文科乙類を卒業する。東京帝国大学文学部仏文科へ入学(無試験)。ボードレールを原語で読むことが中島の仏文進学の目的だった。同期の11人に今日出海小林秀雄淀野隆三平岡昇田辺貞之助三好達治など。当時助教授だった辰野隆に師事する。
1928年、東京帝大を卒業。副手として研究室に残った。英文科教授市河三喜からフランス語の動詞の変化に関して質問を受けたが即答できなかったために侮りを受け、以来、市河とは犬猿の仲となった。
1933年秋、助手に昇格。中島はこのころから評論の執筆を始め、「作品」「文学界」の同人となった。1934年辰野隆鈴木信太郎の世話で臨時講師となる。「教授になれると思うなよ」と初めから念を押されていたが、その代わり学外では好き勝手にやらせてもらうことを約束させ、学内でも大学の予算でフランスの稀覯書を購入して自分のコレクションに加えるなどの自由を満喫した。
1935年1月24日、東大仏文の研究室にて太宰治檀一雄の訪問を受ける(紹介者は井伏鱒二)。そのころ太宰は仏文在学5年目にして取得単位ゼロ、檀は経済学部在学3年目にして取得単位7。二人の目的は、卒業試験を受けるのに必要な単位を泣き落としで手に入れることにあったが、中島に用件を切り出せぬまま酒場で酒を振舞われているうちに卒業などどうでもよくなったという(檀一雄『小説太宰治』および中島健蔵『回想の文学』第2巻『物情騒然の巻』pp.110-113による)。
1942年陸軍に徴用されたためマライ派遣軍の一員として出征、年末に帰国した。
1945年日本文芸家協会を再建し、理事に就任(~1974年)。
1946年、日本著作家組合創設。書記長となった。同年、野上彰の「火の会」に参加する。第二次世界大戦に協力した文化人の指弾にあたった。1948年、福田陸太郎太田三郎とともに日本比較文学会を結成、初代会長となる。
1951年から1952年にかけて、伊藤整チャタレー裁判で特別弁護人として出廷し、言論の自由を擁護する。
1954年著作権保護への貢献によって菊池寛賞受賞1955年新日本文学会幹事会議長(~1961年)。1956年日中文化交流協会に参加(のち、理事長となり、文化大革命についても肯定的な発言を行った)。1959年、安保批判の会に参加する。
1960年、東大仏文大学院講師となる。1962年、東大を辞職した。
1978年、『新聞収録大正史』(大正出版)を監修。
1979年6月11日東京都中野区肺癌により死去した〔「中島健蔵氏 死去」 朝日新聞、1979年6月12日、2014年10月12日閲覧〕。
中島はクラシック音楽にも造詣が深く、1982年から2009年まで中島健蔵音楽賞が贈られていた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「中島健蔵」の詳細全文を読む




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