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モンゴルのホラズム・シャー朝征服 : ミニ英和和英辞書
モンゴルのホラズム・シャー朝征服[ふく]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [あさ, ちょう]
 (n-adv,n-t) morning
征服 : [せいふく]
  1. (n,vs) conquest 2. subjugation 3. overcoming 
: [ふく]
  1. (n,n-suf) clothes 

モンゴルのホラズム・シャー朝征服 : ウィキペディア日本語版
モンゴルのホラズム・シャー朝征服[ふく]

この項目では、1219年から1222年にかけて行われたモンゴル帝国によるホラズム・シャー朝の征服について記述する。この遠征によって数十の都市が破壊され、数百万人の人間が殺害されたと言われている〔間野『中央アジアの歴史』、144頁〕。
== 戦争の背景 ==
1211年から1215年にかけて行われたモンゴル帝国の第一次対金戦争の後、チンギス・ハーン中国方面の攻略を将軍ムカリに委任し、西方遠征の準備に取り掛かった〔杉山『モンゴル帝国の興亡(上)軍事拡大の時代』、45-47頁〕。
ホラズム・シャー朝の君主アラーウッディーン・ムハンマドは、1210年に宗主国である西遼(カラ・キタイ)との戦争に勝利する。イルハン朝の歴史家ジュヴァイニーは、1200年に没したホラズム・シャー朝の君主アラーウッディーン・テキシュは西遼の後方に存在する「恐るべき民族」の存在をアラーウッディーンに警告し、聖職者のサイイド・モルタザは「恐るべき民族」の防壁となる西遼の衰退を嘆いたことを伝えている〔勝藤『モンゴルの西征 ペルシア知識人の悲劇』、83,172-173頁〕。1212年/13年までにアラーウッディーンはマー・ワラー・アンナフル地方を制圧し、アフガニスタンゴール朝を併合した〔ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、158-160頁〕。ホラズム・シャー朝はイラン方面に勢力を拡大し、1217年/18年にはバグダード遠征を実施してアッバース朝カリフに圧力を加えた〔ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、166頁〕。東方で勢力を拡大するモンゴル帝国の動向はホラズム・シャー朝にも伝わり、1215年にアラーウッディーンはサイイド・バハーウッディーン・ラーズィーが率いる使節団をチンギスの元に派遣する〔加藤「「モンゴル帝国」と「チャガタイ・ハーン国」」『中央アジア史』、118頁〕。チンギスは使節団を厚遇し、ホラズム地方出身のマフムードらが率いる返礼の使節団を派遣した〔。
1218年にアラーウッディーンはブハラにおいてモンゴル帝国から派遣された使節団と謁見し、「両国の友好を望み、自分の子のように見なしたい」というチンギスからの申し出を受け取った〔ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、174-175頁〕。アラーウッディーンは使節の一人であるマフムードにモンゴル帝国の兵力について尋ねたとき、アラーウッディーンに怒気を帯びていることに気付いたマフムードはモンゴルの兵力はホラズム・シャー朝に比べて弱いものだと答え、平静を取り戻したアラーウッディーンは友好的な回答を与えて使節を送り返したと伝えられている〔ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、175-176頁〕。
1218年、モンゴルが派遣した使節団と隊商がオトラルの町で総督イナルチュクに殺害され、財貨が略奪される事件が起きる。モンゴル帝国のホラズム・シャー朝遠征の原因を使節団の虐殺に対する報復とすることが定説となっていたが、ホラズム・シャー朝の攻撃は前もって計画されたものであり、使節団は遠征の前に派遣された偵察隊の役割を担っていたと推定する見解が現れている〔小林『ジンギスカン』、146-147頁〕〔杉山『モンゴル帝国の興亡(上)軍事拡大の時代』、50頁〕〔加藤「「モンゴル帝国」と「チャガタイ・ハーン国」」『中央アジア史』、119-120頁〕。遠征の動機の一つに王侯貴族への新たな牧地の授与、従属民への戦利品の分配による社会的矛盾の緩和が挙げられている〔クシャルトゥルヌ、スミルノフ「カザフスタン中世史より」『アイハヌム2003』、50頁〕。また、オトラルの虐殺はモンゴル帝国とホラズム・シャー朝の友好による交易路の保護と拡張を期待していたムスリム商人に打撃を与え、彼らの交易ネットワークは破綻した〔加藤「「モンゴル帝国」と「チャガタイ・ハーン国」」『中央アジア史』、120頁〕。
1218年にモンゴルの将軍ジェベが率いる遠征隊がナイマン部族クチュルクが簒奪した西遼を滅ぼして東トルキスタンを支配下に収めると〔杉山『モンゴル帝国の興亡(上)軍事拡大の時代』、48頁〕、西遼を吸収したモンゴル帝国はホラズム・シャー朝と領土を接するようになる〔ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、150頁〕。クチュルクの攻撃に先立ってチンギスはオトラルで隊商を殺害したイナルチュクの引き渡しをアラーウッディーンに要求するが、アラーウッディーンはチンギスの要求を拒んだ〔ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、180-181頁〕〔小林『ジンギスカン』、151頁〕。
西遼を滅ぼした後にモンゴル帝国で開催されたクリルタイでホラズム・シャー朝との開戦を決定され、軍隊の編成が協議された〔ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、184頁〕。チンギスは末弟のテムゲ・オッチギンモンゴル高原に残し、1218年末にホラズム・シャー朝への行軍を開始する〔。1219年夏にチンギスはイルティシュ河畔で馬に休息を取らせ、同年秋に天山ウイグル王国アルマリクのスクナーク・テギン、カルルク族のアルスラーン・カンの軍隊を加えて進軍した〔。開戦前にモンゴル帝国は西夏にも援軍の派遣を求めていたが、西夏から援軍は送られなかった〔小林『ジンギスカン』、152頁〕。経済的な危機に直面するムスリム商人はモンゴル帝国の征西に積極的に協力し、ホラズム・シャー朝の国情や地理に関する詳細な情報を提供するだけでなく、遠征の計画の立案にも関与していたと考えられている〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「モンゴルのホラズム・シャー朝征服」の詳細全文を読む




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