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ムカリ : ウィキペディア日本語版
ムカリ
ムカリMuqali guy-ong、1170年 - 1223年)は、モンゴル帝国の初代ハーンであるチンギス・カンの家臣。チンギス・カンの左翼諸軍に属す24の諸千戸隊を統括する万戸(トゥメン)の長であった。『元朝秘史』に載る1206年のチンギス・カン即位時の功臣表では、モンリク・エチゲボオルチュに次ぐ第3位に数えられる。『元朝秘史』『元史』などの漢語表記では木華黎、木合黎、木花里、謀合理、摩羅など。『集史』のペルシア語表記などでは「ムカリ国王」の音写である、 موقلىكويانك Mūqalī Kūyānk などと書かれる。『元朝秘史』『集史』によれば、チンギス・カンによって右翼諸軍を統括するボオルチュとならび、カラウン・チドンとよばれる地域を統べる左翼万戸長に任じられたと言う。ボオルチュとならぶモンゴル帝国創業の大勲臣のひとりであり、死後に東平王、魯国王に封じられる。
ジャライル部族の首長家であるジャアト・ジャライル氏族(チャアト〜ジャアト Ča'at〜Čaγat<Jaad, جات Jāt)の出身。ジャアト・ジャライル氏族長テレゲトゥ・バヤンの息子グウン・ウアの子。兄弟にタイスン、ブカなどがいたことが知られている。ジャアト・ジャライル氏族、なかでも彼を祖とするムカリ国王家は、大元ウルス時代を含めモンゴル帝国東部でもっとも影響力の強かったモンゴル諸侯家のひとつであった。
== 生涯 ==
元朝秘史』『集史』などによれば、後のチンギス・カンことテムジンが一族のジュルキン氏(チンギスらが属すモンゴル部族キヤト氏族うちキヤト氏族の祖カブル・カンの長男オキン・バルカクの家系)の首長、サチャ・ベキ、タイチュ兄弟を攻め滅ぼした時、ジュルキン氏に仕えていたしていたジャアト・ジャライル部族もテムジン一門に降伏した。ジャアト・ジャライル部族の首長であったテレゲトゥ・バヤンの息子たちのうち、グアン・ウア、チラウン・カイチ、ジェブゲの兄弟はテムジンに帰順し、この時、グアン・ウアは息子のムカリ、ブカを、同じくチラウン・カイチもトンゲ、カシをそれぞれテムジンに目通りさせて差し出し、ムカリとブカはテムジンの侍衛集団であるケシクに加えられ養育を受けた。
1196年頃からチンギスに従ってモンゴル統一の過程で数々の武功を挙げた。このため、1206年にチンギスが即位すると、万人長に任じられた。討伐でもチンギスに従って従軍し、遼東遼西平定で功績を挙げた。
1217年、チンギスより「国王」の称号とゴビ砂漠以南の領土を与えられ、モンゴル族・契丹族・投降した女真族からなる大軍を委任され東方攻略を一手に引き受けた。ムカリは史天沢厳実張柔ら漢人軍閥を降伏させて味方に取り込むことで金討伐戦を有利なものとし、さらに高麗王朝の服属にも成功した。
しかし晩年は老齢のためか次第に衰えが見え始め、また金の抵抗も激しかったこともあって1223年の金の首都・開封戦では敗退し、失意のままに同年のうちに山西南部で死去した。54歳。
子孫はチンギスの孫・クビライの創設した王朝の世襲貴族として仕え、ムカリの子・ボオルの3男・バアトルはクビライの義兄弟として王朝創設に貢献した。『元史』巻百十九に「木華黎伝」が設けられている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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