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テムゲ・オッチギン : ウィキペディア日本語版
テムゲ・オッチギン
テムゲ・オッチギン(Temüge Odčigin、? - 1246年)は、チンギス・カンの末弟で、モンゴル帝国の皇族である。イェスゲイ・バアトルコンギラト部族オルクヌウト氏族出身のホエルンとの四男で、他の同母兄にはジョチ・カサルカチウンがいる。『元朝秘史』『元史』などの漢語資料では、帖木格斡赤斤(『元朝秘史』巻1・60段)、鐵木哥斡赤斤 國王、帖木格斡赤斤、忒木哥窩眞、斡陳那顔など。『集史』などのペルシア語表記では تموكه اوتچكين Tamūka Ūtchikīn と書かれる。『集史』によると、オッチ(ギン)・ノヤン اوتچی نويان Ūtchī Nūyān という名前で知られていたといい、『世界征服者史』でも اوتكين نويان Ūtkīn Nūyān と書かれている。オッチギンとは「炉の番人」の意であり〔『集史イェスゲイ・バハードゥル紀諸子表のテムゲ・オッチギンの条の説明によると、「テムゲが名前である。オッチギンとは『火とユルト(家屋、または牧草地)の主』という意味であり、年少の息子はオッチギンと呼ばれる( تموكه نام است و اوتچكين يعنى خداوند آتش و يورت و پسر كوچكين را اوتچكين گويند Tamūka nām ast wa Ūtchikīn ya`nī khudāvand-i ātash wa yūrt wa pisar-i kūchakīn rā Ūtchikīn gūyand )」とある。〕とは、テムゲが母ホエルンの家産を相続する末子であったことからこう呼ばれた。
チンギスから特に愛され、国王の称号を与えられた〔小林「テムゲ・オッチギン」『アジア歴史事典』6巻、441-442頁〕。チンギスが即位した後に5の千人隊を与えられ、さらに母ホエルンが与えられた3の千人隊を継承し、8の千人隊を有するに至った〔堀川「モンゴル帝国とティムール帝国」『中央ユーラシア史』、177頁〕。モンゴル東方の左翼部の満州に接する地域に遊牧地を与えられ〔ドーソン『モンゴル帝国史』2巻、60頁〕、ジョチ・カサル、カチウンの子孫ら東方の王侯を統率し、モンゴル貴族や漢人勢力に影響力を持つモンゴル帝国左翼の中心人物となった〔杉山『モンゴル帝国の興亡(上)軍事拡大の時代』、65頁〕。チンギスの死後は甥のオゴデイの擁立に協力し〔『モンゴル秘史 1 チンギス・カン物語』、82-83頁〕、モンゴル帝国の東方を代表する人物としてオゴデイ・ハーン、西方地域を統括する甥チャガタイとともにモンゴル帝国の新体制を構築した〔杉山『モンゴル帝国と長いその後』、143頁〕。
テムゲ・オッチギンは勇気のある性格で、オルドを治めることを好んだという〔。また、派手好みな性格で、領地に宮殿や園囿を多く造ったと言われている〔。
== 生涯 ==
生年は不詳だが、『元朝秘史』によると、チンギス・カンより6歳年下とされる。
ナイマン討伐で戦功を立て、1219年からのモンゴル帝国の征西では、母ホエルンとともにモンゴル本土の留守を任される〔。1227年第五次西夏遠征では、チンギスが率いる本隊とは別行動をとって信都府を攻略した〔ドーソン『モンゴル帝国史』2巻、18,20頁〕。
1227年にチンギスが没したとき、甥のチャガタイと共にオゴデイを新たなモンゴルの指導者に推戴した。1230年からの第二次対金戦争では、オッチギンは左翼軍を率いて中都から黄河に向かって南下した。オッチギンの軍隊は黄河を渡って戦闘には参加しなかったものの〔杉山『モンゴル帝国の興亡(上)軍事拡大の時代』、62-63頁〕、恐怖に駆られた金の領民は開封とその周辺に逃れ、人口の流入によって金に食糧危機と社会不安をもたらした〔堀川「モンゴル帝国とティムール帝国」『中央ユーラシア史』、183頁〕〔杉山『モンゴル帝国の興亡(上)軍事拡大の時代』、60頁〕。
1241年末にオゴデイが没すると、オッチギンはハーンの位を求め、軍隊を率いてオゴデイの皇后たちのオルドに向かった。しかし、皇后ドレゲネに阻まれ、征西から帰国したオゴデイの皇子グユクがエミルに到着した報告を聞くと帝位を断念し、ドレゲネに弔問に訪れた旨を伝えて軍を引き返す〔ドーソン『モンゴル帝国史』2巻、218頁〕。その後オッチギンは王侯を引率して新たなハーンを選挙するクリルタイ、グユクの即位式に出席した。オゴデイ、それに続くチャガタイの急死に、オッチギンの関与を疑う意見も存在する〔杉山『モンゴル帝国と長いその後』、178頁〕。
グユクの即位後、オッチギンは先に行った帝位の簒奪について、トルイ家のモンケとジョチ家のオルダから審問を受けた。オッチギンの配下の将校たちを処刑することで裁判は決着し、判決の直後にオッチギンも没した〔杉山『モンゴル帝国の興亡(上)軍事拡大の時代』、95頁〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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