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マンフレート・フォン・アルデンヌ : ミニ英和和英辞書
マンフレート・フォン・アルデンヌ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

マンフレート・フォン・アルデンヌ : ウィキペディア日本語版
マンフレート・フォン・アルデンヌ[ちょうおん]

マンフレート・フォン・アルデンヌ(Manfred von Ardenne、1907年1月20日 - 1997年5月26日)は、ドイツ物理学者発明家。約600の特許を取得した(電子顕微鏡、医療テクノロジー、原子力テクノロジー、プラズマラジオテレビなど)。1928年から1945年まで、私立研究所 ''Forschungslaboratorium für Elektronenphysik'' を運営していた。第二次世界大戦から10年後、ソビエト連邦で原子爆弾開発プロジェクトに携わり、ソビエト連邦国家賞を受賞。ドイツに戻ってから、新たな私立研究所 ''Forschungsinstitut Manfred von Ardenne'' を設立。
== 経歴 ==

=== 初期 ===
アルデンヌの祖母エリザベート・フォン・アルデンヌ(1853年 - 1952年)の波乱の人生は、ドイツの小説家テオドール・フォンターネの作品 ''Effi Briest'' の元になっていると言われている。
1907年、ハンブルクの裕福な貴族の一家で5人兄弟の長男として生まれた。1913年、父が ''Kriegsministerium'' に任命され、ベルリンに引っ越した。幼いことから様々なテクノロジーに好奇心をそそられる傾向があり、両親もこれを歓迎した。当初は自宅で家庭教師から教えを受けていたが、1919年にベルリンの ''Realgymnasium'' に通うようになり、そこで物理学とテクノロジーへの関心を深めた。校内の競技会でカメラと警報システムの模型を提出し、一等賞になった〔Ardenne – Deutsches Historisches Museum.〕。
1923年、15歳のとき、無線電信に使える多機能真空管の特許を取得した。そしてギムナジウムを中退し、師と仰ぐ事業家 Siegmund Loewe と共に無線工学の開発を進めていくことにした。Loewe はアルデンヌの多機能真空管を使った安価な Loewe-Ortsempfänger OE333 を開発。1925年、特許収入と出版物の収入を使い、アルデンヌは広帯域増幅器の改良を実現し、それが後のテレビレーダーの開発の基礎となった〔。
ギムナジウムを卒業していないためにアビトゥーアの資格を持っていなかったが、アルデンヌは大学で物理学化学数学を学ぼうとした。しかし大学の不自由さになじめず、4学期過ごしたところでそこを辞め、独学で学び、応用物理学一筋に没頭するようになった〔。
1928年、完全に自由にできる遺産を相続し、ベルリンに私設の研究所 ''Forschungslaboratorium für Elektronenphysik'' を創設〔 sachen.de - ''Zur Ehrung von Manfred von Ardenne''.〕、ラジオテレビ技術や電子顕微鏡についての独自研究を進めた。時針の発明からの収入や各種契約からの収入を研究所の資金に充てた。例えば、原子核物理学や高周波技術についての研究にはヴィルヘルム・オーネゾルゲが率いる ''Reichspostministerium'' (RPM, Reich Postal Ministry) が資金提供している。彼の研究所には最高の頭脳が集まった。例えば1940年には原子核物理学者 Fritz Houtermans が参加している。アルデンヌは同位体分離の研究も行っていた。アルデンヌの研究所の設備一覧は私設の研究所としてはかなりのものである。例えば1945年5月10日、内務人民委員部(NKVD)の V. A. Makhnjov がロシア人物理学者 Isaak KikoinLev Artsimovichゲオルギー・フリョロフ、V. V. Migulin を伴って同研究所を訪れた際、彼らはその研究内容と設備(電子顕微鏡、60トンのサイクロトロン、プラズマイオン式同位体分離設備など)に驚嘆した〔〔 Oleynikov, 2000, 6-7.〕〔 Hentschel, 1996, Appendix F; see entry for Ardenne.〕。

1931年8月、アルデンヌは Berlin Radio Show で送受信双方のブラウン管を使ったテレビシステムの公開実験を行った(アルデンヌは撮像管を開発したことがなく、ブラウン管でスライドやフィルムをスキャンする方式を採用していた)〔"Cathode radio television sender on which Baron Manfred von Ardenne has been experimenting since 1928" (photo), ''The New York Times'', August 16, 1931, p. XX8.〕〔"Television at the Berlin Radio Exhibition", ''Television'', October 1931, p. 310, 311, 318.〕〔Albert Abramson, ''Zworykin: Pioneer of Television'', University of Illinois Press, 1995, p. 111.〕。テレビ画像の送信は1933年12月24日に成功し、1934年には公共テレビ放送が試験的に開始された。1935年、ベルリンで世界初の公共テレビ放送がスタートしており、1936年にはベルリンオリンピックの模様がドイツ全土に生中継された〔。
1937年、走査型電子顕微鏡を開発。第二次世界大戦中は、レーダーの研究開発に従事した〔。
1941年、"Berlin-Brandenburgische Akademie der Wissenschaften" から "Leibniz-Medaille" を授与され、1945年1月には "Reichsforschungsrat" (Reich Research Advisor) の称号を与えられた〔 Von Ardenne - Dieter Wunderlich.〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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