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ポール・ダイヤモンド : ミニ英和和英辞書
ポール・ダイヤモンド[だいや]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ダイヤ : [だいや]
 【名詞】 1. (1) dyer 2. (2) diagram (abbr) 3. (3) (railway) schedule 4. (4) diamond (abbr) 5. , (n) (1) dyer/(2) diagram (abbr)/(3) (railway) schedule/(4) diamond (abbr)

ポール・ダイヤモンド : ウィキペディア日本語版
ポール・ダイヤモンド[だいや]

ポール・ダイヤモンドPaul Diamond、本名:Thomas "Tom" Boric1961年5月11日 - )は、クロアチアザグレブ出身の元プロレスラー
カナダに移民後、サッカー選手を経てプロレスラーに転向し、AWAWWFなどで活躍。素顔のポール・ダイヤモンドのほか、覆面レスラーマックス・ムーンMax Moon)やカトーKato)などのリングネームでも知られる。若手時代のショーン・マイケルズのタッグパートナーでもあった。
== 来歴 ==
クロアチア併合後のユーゴスラビアで生まれ、1974年に家族でカナダマニトバ州ウィニペグに移住。学生時代はサッカーに熱中し、1980年NASLのカルガリー・ブーマーズにゴールキーパーとして入団する。1982年からはアメリカ合衆国のタンパ・ベイ・ラウディーズに移り、NASLが活動を停止する1984年までプレイした。
サッカー廃業後もラウディーズの本拠地だったフロリダ州タンパにとどまり、ボリス・マレンコのジムでトレーニングを受け1985年にポール・ダイヤモンドのリングネームでデビュー。テキサス州サンアントニオ地区のテキサス・オールスター・レスリングでキャリアを積み、当初はジン・キニスキーの息子のニック・キニスキーとアメリカン・ブリード、後にショーン・マイケルズアメリカン・フォースなるベビーフェイスタッグチームを組む。マイケルズとのタッグでは、当時アメリカ遠征中だった冬木弘道川田利明のジャパニーズ・フォース(後のフットルース)とも抗争を展開した。
その後アメリカン・フォースは解散し、マイケルズはカンザスシティNWAセントラル・ステーツ地区に転戦。ダイヤモンドは1986年10月の全日本プロレスへの初来日を経て、メンフィスCWAに参戦する。CWAでは日系アメリカ人レスラーのパット・タナカと意気投合し、ヒールのタッグチーム、バッド・カンパニーBadd Company)を結成。同地区認定のタッグタイトルを再三獲得した。
1988年よりAWAに進出。サンアントニオ時代の相棒だったショーン・マイケルズ&マーティ・ジャネッティのミッドナイト・ロッカーズと抗争を展開し、同年3月19日にはロッカーズからAWA世界タッグ王座を奪取した。1年後の1989年3月にケン・パテラ&ブラッド・レイガンズにタイトルを奪われるとタナカとのコンビを解消。フェイスターンしてグレッグ・ガニアザ・トルーパーと共闘し、ラリー・ズビスコが保持していたAWA世界ヘビー級王座にも挑戦した。
1990年末、同年初頭にニューヨーク入りしていたタナカに続いてWWFと契約。WWFでのタナカの前任パートナーだったサトーのフロント入りに伴い、顔を覆面で隠し空手の道衣を身につけたニセ日本人レスラーのカトー(現地ではケイトーとも発音)に変身、オリエント・エクスプレスThe Orient Express)の新メンバーとなる。マイケルズ&ジャネッティのロッカーズとの抗争をギミックを変えた形で再開し、リージョン・オブ・ドゥームハート・ファウンデーションなどの強豪チームとも対戦した。1991年には当時WWFと提携していたSWSに素顔のポール・ダイヤモンド名義でタナカと共に来日、チーム名は違えども、事実上のバッド・カンパニーとしての日本マット登場を果たした。
1992年、タナカのWWF離脱後にシングルプレイヤーとなり、9月のWAR来日を経て、サイボーグをイメージしたベビーフェイスのSF風マスクマン、マックス・ムーンに再変身する(初代のマックス・ムーンはコナンだったが、短期間でWWFを退団したため後任として2代目を担当することになった)。空中技主体のファイトスタイルと、両腕に装着されたデバイスから火花や白煙を噴射するパフォーマンスで子供達の支持を集め、ショーン・マイケルズインターコンチネンタル王座にも挑戦。リポマンとの覆面レスラー同士のミニ抗争も組まれたが、マイクパフォーマンスのスキルに難があったため、大きなプッシュを受けることはなかった〔。
1993年上期にWWFを離れ、同年6月にポール・ダイヤモンドとして新日本プロレスに来日。1994年1月と7月には、WWF時代と同じスタイルのマックス・ムーンとして新日本に再来日している。アメリカでは、1993年10月よりECWでタナカとバッド・カンパニーを再結成し、パブリック・エナミーやバッド・ブリード(アクセル&イアン・ロッテン)、ケビン・サリバン&タズマニアックらと抗争。1994年には短期間なからWCWにも登場した。その後はメンフィスCWAの後継団体であるジェリー・ローラーUSWAに参戦し、スティーブン・ダンと新チームを結成。1997年5月にトゥルース・コミッションインテロゲーター&リーコン)を破りUSWA世界タッグ王座を獲得した。
1998年より、旧友ショーン・マイケルズがサンアントニオで主宰していたTWA(Texas Wrestling Academy)にレスラー兼トレーナーとして参加〔。TWAヘビー級王座を獲得する一方、師範代となってブライアン・ケンドリックブライアン・ダニエルソンらをコーチした。TWA活動停止後の2001年にセミリタイアし、ホームタウンのウィニペグにてプロレスリング・スクール "Paul Diamond Hard Knocks Pro Wrestling Academy" を開校、後進の指導・育成にあたっている〔。各地のインディー団体にも時折出場しており、2004年にはアラバマ州ハンツビルのRCW(Rocket City Wrestling)にマックス・ムーンのギミックでスポット参戦。2008年4月18日にはフロリダのASWF(All Star Wrestling Florida)にてパット・タナカとのオリエント・エクスプレスを復活させた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ポール・ダイヤモンド」の詳細全文を読む




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