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スウェード・ハンセン : ミニ英和和英辞書
スウェード・ハンセン[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

スウェード・ハンセン : ウィキペディア日本語版
スウェード・ハンセン[ちょうおん]

スウェード・ハンセン "Big Foot" Swede Hansen、本名:Robert Fort Hanson1933年3月27日 - 2002年2月19日)は、アメリカ合衆国プロレスラーニュージャージー州イースト・オレンジ出身。リングネームは本姓からスウェード・ハンソンSwede Hanson)ともされるが、本項では日本で定着している表記を使用する。
リップ・ホークとのタッグチームであるブロンド・ボンバーズThe Blond Bombers)での実績で知られ、1960年代から1970年代にかけてを全盛期に、ヒールのブルファイターとして活躍した。
== 来歴 ==
プロレスラーとなる以前はアマチュアボクシングで活躍し、地元ニュージャージーゴールデングローブで数回優勝した実績を持つ〔。ロッキー・マルシアノアーチー・ムーアのスパーリング・パートナーを務めたこともあるが、プロボクサーとなるには体が大きすぎたため、プロレスに転向〔。1957年のデビュー後、1959年よりWWWFの前身団体であるNWAキャピトル・レスリング・コーポレーションで活動、ブルーノ・サンマルチノキラー・コワルスキーベアキャット・ライトルーサー・リンゼイアート・トーマスレッド・バスチェンなどと対戦してキャリアを積んだ。
1962年ノースカロライナを本拠地とするミッドアトランティック・チャンピオンシップ・レスリング(MACW)にてリップ・ホークと邂逅、兄貴分のホークに合わせて髪をブロンドに染め、ブロンド・ボンバーズなるヒールタッグチームを結成。以降、小型ラフファイターの司令塔ホークと巨漢パワーファイターの執行者ハンセンというコンビネーションのもと、各地のタッグマッチ戦線を席巻〔〔。1965年8月3日にはフロリダにてデューク・ケオムカ&ヒロ・マツダからNWA世界タッグ王座を獲得。1967年5月には日本プロレスに揃って来日、アントニオ猪木&吉村道明が保持していたアジアタッグ王座に挑戦した〔竹内宏介監修『世界名レスラー100人伝説!!』P116-117(2003年、日本スポーツ出版社)〕。
1968年6月には主戦場のMACWにてエドワード・カーペンティア&ミゲル・ペレスを下し、NWAアトランティック・コースト・タッグ王座の初代チャンピオン・チームとなる(以降もネルソン・ロイヤル&ポール・ジョーンズなどのチームを抗争相手に、通算4回に渡って戴冠)。ジム・バーネットが主宰していたオーストラリアのワールド・チャンピオンシップ・レスリングにも遠征し、1970年4月にバディ・オースチン&カーティス・イヤウケアから豪州版のIWA世界タッグ王座を奪取した。
1972年は同じくタッグ屋で鳴らしたジン・アンダーソン&オレイ・アンダーソンミネソタ・レッキング・クルーとも抗争したが、1973年末にホークが単身でフロリダ地区に転戦したことを機に、1974年よりベビーフェイスに転向。スーパー・デストロイヤージョニー・バレンタインとの抗争を経て、ホークのMACW復帰後は、ハンセンはタイガー・コンウェイ・ジュニア、ホークはリック・フレアーを新パートナーに遺恨試合を展開した。
1976年テキサス西部のアマリロ地区にてホークとのブロンド・ボンバーズを再結成。翌年にかけて、同地区のフラッグシップ・タッグタイトルだったNWAウエスタン・ステーツ・タッグ王座を通算3回獲得した。アマリロではドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンクザ・ファンクスとも対戦。ファンクスはアンドレ・ザ・ジャイアント、ボンバーズはサイクロン・ネグロと組んでの6人タッグマッチも行われた。1977年7月にはアマリロ地区との提携ルートにより、単身で全日本プロレスに来日している。
ホークとのコンビを正式に解散後、ブロンドに染めていた髪を本来の色に戻し、1979年下期より南部人ギミックのベテラン・ヒールとしてWWFに参戦。フレッド・ブラッシーマネージャーに迎え、10月22日にニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンにてボブ・バックランドWWFヘビー級王座に挑戦した。その後も古巣のMACWやモントリオール地区を経て1982年よりWWFに定着したが、体力的な衰えもあり、ジョバーのポジションに降格していた。
1983年11月、WWFとの提携ルートで新日本プロレスに来日し、アンドレ・ザ・ジャイアントのパートナーとして『第4回MSGタッグ・リーグ戦』に出場。アンドレの孤軍奮闘で、アントニオ猪木&ハルク・ホーガン藤波辰巳&前田明長州力&アニマル浜口キラー・カーン&タイガー戸口ボビー・ダンカン&カート・ヘニングなどのチームを相手に首位を独走し決勝進出を決めていたが、ディック・マードック&アドリアン・アドニスとの対戦で、場外でのハイジャック・パイルドライバーによりハンセンが首を負傷。欠場に追い込まれ、優勝戦を棄権することとなった〔。なお、アンドレ・ザ・ジャイアントとはプライベートでも親友同士だったという〔。
1984年よりWWFではベビーフェイスのポジションに回り、ビンス・マクマホン・ジュニアの新体制下でスタートした全米侵攻サーキットにおいて、ビッグ・ジョン・スタッドデビッド・シュルツポール・オーンドーフカウボーイ・ボブ・オートンドン・ムラコジェシー・ベンチュラアイアン・シークニコライ・ボルコフケン・パテラキングコング・バンディジム・ナイドハートランディ・サベージらのジョバーを1985年まで務めた。
2002年2月19日、68歳で死去〔。晩年はアルツハイマー型認知症を患い、糖尿病高血圧症心臓病との闘病生活を送っていた〔。没後の2007年、リップ・ホークと共にミッドアトランティック版のNWA殿堂に迎えられている(殿堂入りのインダクターは、彼らのマネージャーを務めていたゲーリー・ハートが担当した)。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「スウェード・ハンセン」の詳細全文を読む




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