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コルッチョ・サルターティ : ミニ英和和英辞書
コルッチョ・サルターティ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

コルッチョ・サルターティ : ウィキペディア日本語版
コルッチョ・サルターティ[ちょうおん]

リーノ・コルッチョ・サルターティ(、1331年2月16日 - 1406年5月4日)は、ルネサンス期イタリア政治家人文主義者(ヒューマニスト)。
1375年から亡くなる1406年までフィレンツェ共和国書記官長を務めた。同国出身の詩人フランチェスコ・ペトラルカ弟子で、当時の人文主義者を保護してフィレンツェを人文主義運動の発信地に成長させた。
公文書の記述に古典ラテン語修辞法を導入し、1397年頃にギリシャ文人マヌエル・クリュソロラスを招聘してフィレンツェでギリシア語を教えさせるなど、約30年に渡ってイタリアに於けるルネサンス(古代文化の復興)に尽力したとして名高い。
代表的な著作に、1400年頃に著された『専制君主論 (''De tyranno'')』があり、これは同国出身の政治思想家ニッコロ・マキャヴェッリ君主論』を先駆けた作品として名高い。また、サルターティがフィレンツェ学者へ宛てた古典ラテン語手紙は、その洗練された文章で知られる。サルターティは「Scimmia di Cicerone」と称される他〔Tanzini, Lorenzo. "Il cancelliere letterato". Medioevo (De Agostini) (145/146): 100.〕、同国出身のカトリック枢機卿ミラノ僭主から「サルターティの筆は、1000人の騎兵に等しい」と評された〔サルターティとは - コトバンク、2014年3月3日閲覧。〕。
== 生涯 ==
1331年2月16日、イタリアのブッジャーノ(現: トスカーナ州ピストイア県)に生まれる。サルターティはギベリン皇帝派)から追われている亡命先であったボローニャで学んだ。ブッジャーノはその後フィレンツェ共和国の一部となり、安全になったため、家族でブッジャーノに戻った。
フィレンツェ共和国の公証人として務め、多くのイタリアの都市を回った。公証人として働く傍ら、文学研究も行い、同国出身の人文主義者であるボッカッチオやと出会った。
1367年教皇領であったトーディの書記官長に就任する。翌年1368年から1370年まで教皇領秘書を務めていたフランチェスコ・ブルーニ ('' Francesco Bruni'') と共にローマに行き、ローマ教皇ウルバヌス5世アヴィニョンからローマに戻る際の助手を務めた〔1309年から1377年にかけてアヴィニョン捕囚教皇のバビロン捕囚)が行われていたため、ローマではなくアヴィニョンに教皇庁が存在していた(アヴィニョン教皇庁)。〕。
1370年には教皇庁のつながりででも書記官長を務めたが、論争をきっかけにすぐに辞職した。
1374年、フィレンツェ共和国政府に仕え、翌1375年からフィレンツェ共和国の書記官長を務めた。
書記官長として指導権を握ると、最初は共和制的な理想を抱いていたが、晩年になるにつれて君主制の考えを是認する立場を取った。
1406年5月4日に亡くなると、フィレンツェ政府はサルターティの葬儀代として250フロリンを支払った〔Caferro, William. ''John Hawkwood''. Baltimore: Johns Hopkins. 2006. Page 315〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「コルッチョ・サルターティ」の詳細全文を読む




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