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アブー・イムラーン・ムーサ・イブン・マイムーン : ミニ英和和英辞書
アブー・イムラーン・ムーサ・イブン・マイムーン[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

アブー・イムラーン・ムーサ・イブン・マイムーン ( リダイレクト:モーシェ・ベン=マイモーン ) : ウィキペディア日本語版
モーシェ・ベン=マイモーン[ちょうおん]

ラビ・モーシェ・ベン=マイモーン( Mōšéh ben Mayimōn, Abū ‘Imrān Mūsa ibn ‘Ubayd Allāh Maymūn al-Qurṭubī al-Isrā'īlī, スペイン語:Moises Maimonides, ラテン語(本来はギリシア語):Moses Maimonides, 1135年3月30日 - 1204年12月13日)は、スペインユダヤ教徒ラビであり、哲学者医学天文学神学にも精通していた。カバリストアリストテレス主義者、新プラトン主義者。
その業績は「モーシェの前にモーシェなく、モーシェの後にモーシェなし」と称賛され〔ザハル『ユダヤ人の歴史』、305頁〕、ルネサンスヒューマニズムの先駆者と評価される〔ディモント『ユダヤ人 神と歴史のはざまで』上巻、190頁〕。
アイユーブ朝前後のアラビア語資料ではイブン・マイムーンの名前で表れるが、ラテン語でのマイモニデスという名前でも知られている。ラムバム RaMBaM () という、「ラビ・モーシェ・ベン=マイモーン」の頭文字をとったヘブライ語的な略称でも知られる〔矢島祐利『アラビア科学史序説』(岩波書店, 1977年3月)、235頁〕。
== 生涯 ==

コルドバ出身〔小林「イブン・マイムーン」『岩波イスラーム辞典』、165-166頁〕。代々続くラビの名門の出身で、一族は判事、学者、財政家を輩出した〔ディモント『ユダヤ人 神と歴史のはざまで』上巻、189頁〕。モーシェの父ヨセフは学者として有名であり、コルドバのユダヤ教徒社会の最高判事も務めた。母はモーシェを生んだ直後に亡くなった〔ヘッシェル『マイモニデス伝』、27頁〕。
モーシェ自身も青少年時代を同地で過ごしユダヤ教学やアラビアの諸学問について研鑽に努める〔黒田「マイモニデス」『新イスラム事典』、446-447頁〕。ヨセフからは数学と天文学の基礎のほかに、ユダヤ神学とラビ文学を教わった〔コートネイ「イブン・マイムーン」『世界伝記大事典 世界編』1巻、415-417頁〕。ヨセフの思いに反して幼いモーシェは学問に興味を示さず、父の厳格な教育に耐えかねて家出したことが伝えられている〔ヘッシェル『マイモニデス伝』、28頁〕。同郷人であったイブン・ルシュド(アヴェロエス)ともこの時代に知己を得ていたと伝えられる〔ヘッシェル『マイモニデス伝』、30頁〕。
ムワッヒド朝によるユダヤ教キリスト教徒への迫害・虐殺を避けるためイスラームに偽装改宗するが、それでも危険と判断しアルメリア地方へ移住。ここも程なくムワッヒド朝軍の侵攻に晒され、モロッコフェズに移住した。放浪の旅の中での見聞は、モーシェの視野の成長に大きく寄与した〔。モーシェは旅の合間にユダヤ暦を扱った論文を書き上げ、『ミシュナー註解』の編集に取り掛かった〔。
フェズ居住中、モーシェは隠れユダヤ教徒(棄教を強制されて表面上は改宗したように見せかけたユダヤ教徒)を攻撃する匿名の書簡に反論する文書をしたためた。これが公刊された最初の論文となった〔ヘッシェル『マイモニデス伝』、52-58頁〕。フェズでモーシェたちは強制的に改宗させられる危機に直面するが〔ザハル『ユダヤ人の歴史』、306頁〕〔ヘッシェル『マイモニデス伝』、62頁〕、一家は信仰の放棄と殉教のどちらも選択せず、1165年4月にパレスチナ行きの船に乗って出立した〔。翌5月にアッコンに到着、パレスチナでは十字軍に護衛されながらユダヤ教の聖地を訪問した。
1166年カイロ南部のフスタート(旧カイロ)に移住するが、同年に父ヨセフを亡くす〔。ここでイスラーム教徒の友人の助けを借りてイスラーム法廷で、本来ならば非常に難しいイスラームへの改宗の無効化を勝ち取る。父の死後にラビ職に就くが、モーシェは報酬を受け取ろうとはしなかった〔ヘッシェル『マイモニデス伝』、80頁〕。そのため、弟のダビデが遺産を元手に宝石商を始め、モーシェの代わりに一家を支えた〔ヘッシェル『マイモニデス伝』、82頁〕。ヨセフの没後は宝石商を営む弟ダビデが生計を支えていたが、ダビデが海難事故で亡くなると一家は困窮し、モーシェは医業によって家計を支えることを決意する〔。移住後、現地のユダヤ教徒社会の指導者として活躍し〔、職務には無給で従事した〔。ユダヤ人社会で起きた法的問題に当を得た回答をし、相談者たちはモーシェを称賛した〔ザハル『ユダヤ人の歴史』、308頁〕。しかし、健康を害して床に臥せることが多くなり、しばしばカライ派と対立した〔。フスタート移住後、バビロニア派とパレスチナ派に分かれた、異なる宗教儀礼を行う現地のユダヤ人の統合を試みた〔ヘッシェル『マイモニデス伝』、99-100頁〕。
移住後にかねてから編集していた『ミシュナー註解』を完成させ、1168年に発表した。1173年、モーシェはエジプトを支配するアイユーブ朝の君主サラーフッディーン(サラディン)の妃に仕えていた女性と結婚する〔ヘッシェル『マイモニデス伝』、340-341頁〕。
モーシェはアイユーブ朝のカーディーアル=ファーディルと親交を結び、1185年〔ザハル『ユダヤ人の歴史』、307頁〕(あるいは1187年ごろ〔ヘッシェル『マイモニデス伝』、216頁〕)に宮廷医に指名される。ファーディルの信頼を得たことで医師としての名声が高まり、宮廷医としての名声は彼をカイロのユダヤ人共同体の指導者の地位に就けた〔。また、1185年にはモーシェに息子が生まれ、彼は子にアブラハムと名付けた〔。
モーシェはサラディンおよびその子アル=アジーズの侍医となり、イスラムの王侯貴族達を診察した。イングランドリチャード1世からイングランド王室の侍医になるよう打診されたが、モーシェは「野蛮」なヨーロッパ世界よりも「文明的」なイスラム世界を好み、勧誘を断った〔〔梶田『医学の歴史』、149-150頁〕。
1204年にフスタートで没する。遺体はモーセの辿った道を運ばれてガリラヤ湖畔ティベリアに葬られ、その墓は今なお巡礼者が絶えない。葬列はベドウィンに襲われたが参列者の中に動揺する者は無く、ベドウィンたちも葬列に加わった伝承が残る〔ザハル『ユダヤ人の歴史』、309頁〕。カイロのラッビー・モーシェ・ベン=マイモーンのシナゴーグの地下の一室は、病んで貧しいユダヤ教徒が夜を過して平癒を祈る所となった。
1953年イスラエルで国際科学史会議が開催された記念として、モーシェの切手が発行された〔矢島祐利『アラビア科学の話』(岩波新書, 岩波書店, 1965年)、154頁〕。また、モーシェの肖像画はイスラエルで発行された紙幣にも採用された〔上田『ユダヤ人』、49頁〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「モーシェ・ベン=マイモーン」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Maimonides 」があります。




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