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ムワッヒド朝 : ウィキペディア日本語版
ムワッヒド朝[むわっひどあさ]

ムワッヒド朝アラビア語 : الموحدون al-Muwahhidūn)は、ベルベル人のイスラム改革運動を基盤として建設されたイスラム王朝1130年 - 1269年)。首都はマラケシュ
現在のモロッコに興り、チュニジア以西の北アフリカマグリブ)とイベリア半島の南部アル=アンダルス(現アンダルシア州とほぼ同じかやや広い範囲)を支配した。その名称のスペイン語訛りから、ヨーロッパではアルモハード朝英語Almohad Caliphate)という名前で知られている。
== 歴史 ==
ムワッヒド朝の起源は、ベルベル人のマスムーダ族出身のイブン=トゥーマルトが開始したイスラム改革運動にある〔ヒッティ (1983)、p.389〕。彼は現在のモロッコ南部、アトラス山脈の出身で、12世紀の初頭に東方への遊学とマッカ(メッカ)巡礼に出た〔私市 (2002)、p.230〕。そこでムラービト朝治下のマグリブのイスラムを改革する必要を感じたイブン=トゥーマルトは帰郷すると、ムラービト朝の公定法学派であるマーリク派に属するイスラム法学者を痛烈に批判した〔私市 (2002)、p.232〕。1121年には故郷で自らが救済者(マフディー)であると宣言して、ムラービト朝に対する反乱を開始した〔那谷 (1984)、p.153〕。イブン=トゥーマルトは神の唯一性(タウヒード)を重視する教義を説き、そこから彼に従う勢力は「タウヒードの信徒」を意味するムワッヒドの名で呼ばれた〔那谷 (1984)、p.150〕。
イブン=トゥーマルトが1130年に没すると、アブド・アルムーミン(以下私市 (2002)、p.232 以下の表記により「アブド・アルムーミン」と記す。)が後継者に就き〔、3代目のマンスールは自らをカリフになぞらえてカリフの称号であるアミール・アルムウミニーン(信徒たちの長)を指導者の称号とした〔那谷 (1984)、p.160〕。アブド・アルムーミン以降、ムワッヒド集団はアルムーミンの子孫がアミール・アルムーミニーンとして後継者の地位を継承する王朝へと変容するが、ムワッヒドの名がそのまま王朝名として使われることになる〔。
アブド・アルムーミンはアトラス山脈に篭ってムラービト朝に対する攻撃を続け、1147年にはマラケシュを占領してムラービト朝を滅ぼした〔那谷 (1984)、p.155〕。さらにムラービト朝の衰退後ムスリム(イスラム教徒)の領土へと侵攻していたキリスト教徒たちとの戦いに積極的に乗り出し、イベリア半島のアンダルスやマグリブ東部にまで進出、アンダルスを支配下に置き、ズィール朝ハンマード朝を滅ぼして、マグリブのほとんど全域を支配するに至った〔那谷 (1984)、pp.156-160.〕。アルムーミンの子アブー=ヤアクーブ・ユースフ1世は、即位以前にセビーリャの統治者を務め、アンダルスに強い関心を持った〔私市 (2002)、p.233〕。彼の治下では哲学者イブン・トゥファイルイブン=ルシュドが活躍し、アンダルスのイスラム文化が頂点を極めた〔。
その子で第3代君主のヤアクーブ・マンスールの時代にはカスティーリャ王国アルフォンソ8世を破って(アラコルスの戦い)、キリスト教徒によるレコンキスタを防ぎ〔那谷 (1984)、p.160〕、東ではリビア西部まで支配下に加えてムワッヒド朝の最大版図を実現したが、次第に王朝のイデオロギーであったタウヒード主義は形骸化し、宗教的情熱に支えられたベルベル人の軍隊が弱体化に向かっていった〔私市 (2002)、p.235〕。1212年、マンスールの子で第4代君主のムハンマド・ナースィルコルドバの近郊でアルフォンソ8世らの率いる十字軍に敗れ(ナバス・デ・トロサの戦い)、アンダルスでの支配力を失った〔那谷 (1984)、p.161〕。
さらにナースィルの治世には本拠地のマグリブでもムワッヒド朝に対する反乱が起こった〔那谷 (1984)、p.162〕。既に宗教的な結束を失っていた有力者たちの間での内紛が激化して政治が混乱したが、1229年には、君主自らが布告を発し、タウヒード思想を放棄した〔。この結果、ムワッヒド朝はますます求心力を失い、地方でもハフス朝が独立するなど〔私市 (2002)、pp.236-237.〕、版図は急速に縮小して現在のモロッコ周辺を支配するのみとなった。1269年、新興のマリーン朝がマラケシュを征服し、ムワッヒド朝は滅亡した〔那谷 (1984)、p.163〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ムワッヒド朝」の詳細全文を読む




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