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サラーフッディーン : ミニ英和和英辞書
サラーフッディーン[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

サラーフッディーン : ウィキペディア日本語版
サラーフッディーン[ちょうおん]

サラディンサラーフ・アッ=ディーン、 、クルド語:Selaheddînê Eyûbî、1137年または1138年 - 1193年3月4日)は、エジプトアイユーブ朝の始祖。現イラク北部のティクリート出身で、アルメニアクルド一族の出自である。
本名をユースフ・ブン・アイユーブ)(アイユーブの息子ユースフの意。ユースフはヨセフの、アイユーブはヨブのアラビア語形。)。サラーフッディーン とは「宗教/信仰()の救い()」を意味するラカブ〔当時のムスリム成人男性が帯びた尊称で、中国史上の人物の(あざな)に相当する〕である。同時代の十字軍側のラテン語資料などでは Salahadinus(サラハディヌス)または Saladinus(サラディヌス)などと称し、これを受けて欧米では慣習的に Saladin(サラディン)と呼ばれる。
== 生涯 ==

=== 生い立ち ===
ヒジュラ暦532年(西暦では1137年または1138年)、イラク北部の町ティクリート(タクリート)に生まれ「ユースフ」と名付けられた〔佐藤『サラディン』(2011), p.25〕。ほかに4人の兄弟がいたがユースフが何番目の子であったかは不明であり〔、母親についての情報もほとんど残されていない〔佐藤『サラディン』(2011), p.26〕。
父のナジムッディーン・アイユーブセルジューク朝治下ティクリートクルド人代官であったが、ユースフが生まれて間もない1138年頃、兄弟のアサドゥッディーン・シール・クーフがキリスト教徒の官吏を誤って殺害したため、一家もろともティクリート追放の憂き目にあった〔佐藤『サラディン』(2011), p.32〕。アイユーブはかつてザンギー朝の創始者、ザンギーバグダードでの戦に敗れモースルへ逃れる際に手助けしたことがあり、アイユーブとシールクーフの兄弟はその時の恩義からザンギーの軍団長に迎えられ、さらにはバールベックに領地を与えられた〔佐藤『サラディン』(2011), pp.32-33, 48-49〕。そのため、ユースフは少年時代をここで送ることになった。バールベックは穀物や果物を産する豊かな町で、後に晩年のサラディンに仕え伝記『サラディン伝』を著したイブン・シャッダード は、想像も込めて「ここで性格の良さが育まれた」と述べている〔佐藤『サラディン』(2011), p.51〕。
1146年にザンギーが手下のマムルーク(奴隷兵)に暗殺されると、ダマスクス総督でブーリー朝アタベク・ムイーヌッディーン・ウナルは軍を派遣してアイユーブの守護するバールベックを包囲攻撃した〔佐藤『サラディン』(2011), p.54〕。アイユーブはこれをよく耐えて、最後はバールベックを明け渡す代わりに、いくばくかの保障金の支払いとダマスクス近郊の村落のいくつかを交渉によって要求しこれの獲得に成功した〔。これによりアイユーブは名目上セルジューク家へ臣従し、ユースフはじめその家族は父とともにダマスクスへ移住する事となった〔。この時ユースフは8歳ほどであり、エジプトで権力を確立する30代前半までをダマスクスで過ごす事になる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「サラーフッディーン」の詳細全文を読む




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