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DJハイド : ウィキペディア日本語版
DJハイド[でぃーじぇいはいど]

DJハイド(DJ Hyde,1978年1月3日生)は、アメリカ合衆国出身のプロレスラーおよびプロレスプロモーター。〔ケージマッチ:DJハイド 〕 身長おおよそ194センチメートル、体重おおよそ136キログラム。本名デビッド・マークランド(David Markland)。〔 自身が主戦場とするコンバット・ゾーン・レスリングの主宰を務めてもいる。〔公式マイスペース

== 経歴 ==
デラウェア州ニューアークに生まれ〔、やがて進んだ地元の高校ではフットボールレスリングに勤しんだ。〔 そしてジョン・ダーマーからの訓練を受けたうえで、2003年―24歳の時にプロレスラーとしてのデビューを行った。〔
やがてコンバット・ゾーン・レスリング(CZW)のマットを主戦場として活動するようになり、2006年になるとそのデスマッチ選手権大会―トーナメント・オブ・デス(TOD)へと初参戦。ジョン・ザンディグダニー・ハボックドレイク・ヤンガーJCベイリーという面子を相手に有刺鉄線ガラス蛍光灯梯子レモンなどを用いたデスマッチ群を戦うも、決勝までには届かず敗退。〔オンライン・ワールド・オブ・レスリング:トーナメント・オブ・デス5 〕 それから2007年〜2008年〜2009年と続けてTODへの出場を重ねていった。〔プロレスリングヒストリー・コム:トーナメント・オブ・デスの通史とその図録
CZWアイアンマン王座を2度にわたって獲得し、この王座を巡ってトビー・クラインとの攻防を繰り広げた2007年にあっては、『ファスト・フォワード』と題されたTODの番外の大会にも出場。〔オンライン・ワールド・オブ・レスリング:コンバット・ゾーン・レスリング(2007年) 〕 その翌2008年に出場したベスト・オブ・ザ・ベストでは、ニック・ゲージの保持下にあったCZW世界ヘビー級王座の奪取に挑戦するも失敗。自身4度目の参戦となったこの年のTODでも敗退の結果を見たものの、インサーン・レーンダニー・ハボックブレイン・ダメージを相手に行ったバトルロイヤル戦を制し、これにて自身3度目となるアイアンマン王座の獲得を果たした。〔オンライン・ワールド・オブ・レスリング:コンバット・ゾーン・レスリング(2008年)
2009年にはIWAミッドサウスキング・オブ・ザ・デスマッチ選手権大会に初出場し、コーポラル・ロビンソンを相手に戦った画鋲を用いたデスマッチにて一回戦目で敗退。〔オンライン・ワールド・オブ・レスリング:IWAミッドサウス(2009年) 〕 この年のTODにあっては、サムタック・ジャックとのデスマッチ―コンクリートブロックガラス蛍光灯などの凶器群が乱舞した一回戦目のデスマッチにおいて、複数本の注射器を用いた極めて凄惨なる攻防戦を展開して見せた。〔レッスルビュー:CZW 6/6 デラウェア州タウンゼントの結果 ジョン・ザンディグから引き継ぐ形でCZWの主宰となったのはこの年のことであった。〔インディー・レスリング・ニュース@2009年8月9日
2010年になると大日本プロレスへの参戦のために日本の地を踏み、横浜を舞台にその設立15周年を記念する大会に参加。葛西純ニック・ゲージが復活させた『CZWジャパン』という連合の一員となったうえで、沼澤邪鬼竹田誠志木高イサミを相手に有刺鉄線やカミソリを用いたデスマッチを展開した。〔スポーツナビ大日本プロレス「設立15周年記念 DEATH CRAZY That's The Way Of The BJ-World 横浜大会」>第6試合 6人タッグデスマッチ 30分1本勝負

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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