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大日本プロレス : ミニ英和和英辞書
大日本プロレス[だいにほんぷろれす]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

大日 : [だいにち]
 【名詞】 1. Mahavairocana (Tathagata) 2. Great Sun 3. Supreme Buddha of Sino-Japanese esoteric Buddhism
: [にち, ひ]
  1. (n-adv,n-t) sun 2. sunshine 3. day 
日本 : [にっぽん, にほん]
 【名詞】 1. Japan 
: [ほん, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation 

大日本プロレス : ウィキペディア日本語版
大日本プロレス[だいにほんぷろれす]

大日本プロレス(だいにほんプロレス)は、日本プロレス団体昭和後期に梶原一騎が設立を計画したプロレス団体「大日本プロレス」とは無関係。詳しくは「大日本プロレス設立計画」を参照。〕。運営は大日本プロレスリング興業株式会社(だいにほんプロレスリングこうぎょう)と、その子会社の有限会社四ツ葉工芸(よつばこうげい)。
デスマッチ団体を標榜しており、派手なデスマッチを特徴としている。旗揚げ当初こそ試行錯誤を重ね徐々に看板をデスマッチに特化していった。その後ストロングスタイルのプロレスの台頭を経て現在に至る。
== 歴史 ==
1994年12月21日、元日本プロレス全日本プロレスのプロレスラーでWARの営業部長としてフロント入りしていた小鹿信也(現:グレート小鹿)が、同年10月に興行活動を停止したNOWケンドー・ナガサキらとともに設立した。旗揚げには、NOWから所属していた若手の谷口裕一とNOWで社長であった登坂栄児がレフェリーとして参加。さらに、元UWF所属であったブルーザー岡本東京プロレス所属の山川征二(後の山川竜司、山川もNOW所属であったが谷口や登坂と異なり、東京プロレスを経由して大日本に移籍している)、生え抜き第1号となった練習生の小林洋輔(現:アブドーラ小林)が所属選手となり、I.W.A.JAPANや東京プロレスなど他団体の協力を得て陣容を整えた。
旗揚げ戦は1995年3月16日神奈川県横浜文化体育館で行われた。草創期は現在も続くデスマッチ路線のほか、エースのナガサキが「打倒、ヒクソン・グレイシー」を明言して総合格闘技への進出を表明、団体も「ハラキリ」と称してナガサキのバーリ・トゥード路線を支えたが、同年9月26日ジーン・フレージャー戦で36秒でKOされ惨敗を喫して以降は、バーリ・トゥード路線は頓挫。デスマッチを中心とした純プロレス路線に方向性を特化していく。
草創期のデスマッチアイテムとしてはFMWなどでも行われていた有刺鉄線(当初、大日本では「バラ線」と称していた)がメインであったが、W★INGプロモーション出身のグレート・ポーゴ(現:ミスター・ポーゴ)松永光弘中牧昭二などが参戦する様になってからは過激なデスマッチ路線に拍車がかかり、中牧が所属以前に主戦場としていたIWAジャパンで頻繁に行われていた画鋲やガラスを使用したデスマッチ、さらには松永が考案したサソリやワニ、サボテンなどを使用した奇抜なデスマッチにファンの注目が集まった。また、若手選手の中から山川や小林、さらにIWAジャパンから移籍した志賀悟(現:シャドウWX)などがデスマッチ路線に投じ、後に中心選手として活躍する素地を築いたと言える。また、社長の小鹿自身も当時50代後半に差し掛かりながら現役として復帰、自らデスマッチに出場し、また出場時の様々なコスプレも話題となった。
1996年には後述する新日本プロレスとの抗争が勃発し、翌1997年1月4日の新日本の東京ドーム大会では小鹿を筆頭に5名が出場したがそれ以上の進展はなかった。話題作りの一環として同年7月にはレスリング・ベア(クマ)の招聘を計画していたものの動物愛護団体の反発により頓挫するなど試行錯誤が続いたが、最終的にはデスマッチ路線に再び活路を見出すこととなった。この間に中心選手であったナガサキや中牧が大日本を離脱し、デスマッチ路線の陣容は松永、山川、小林、WXらが中心に変わり、新たにデビューした本間朋晃葛西純などが参入、さらにはアメリカのハードコア団体CZWと提携するなど、陣容を整えてきた。現在の大日本のデスマッチとして代名詞となっている「蛍光灯デスマッチ」は、この当時在籍していた本間によって考案されている。
1999年からは「大日本最侠タッグリーグ戦」を開催。2003年を最後に一度休止となるが、2009年復活した。
2001年12月2日には横浜アリーナへの興行に進出。ミル・マスカラステリー・ファンクの招聘、ガラス爆破デスマッチのほか、当時、頭蓋骨骨折で長期戦線離脱していた山川竜司の復帰戦が行われるなど、現在に至るまで最大規模の興行となっている。なお、横アリ進出に至った経緯については、当時後楽園大会が不入りが続くなど団体が崩壊寸前まで陥っていたため、それに対する「ショック療法」だったと登坂栄児が社長就任後に語っている〔週刊プロレス2014年9月24日号のインタビューより〕。その一方、開催資金用の借入金の返済が2008年初頭までかかった。
この頃に前後して、上記の選手勢に加え関本大介伊東竜二沼澤直樹(現:"黒天使"沼澤邪鬼)ら若手選手の陣容も整ってきたことから、社長の小鹿は興行に出場する機会が少なくなり「ちゃんこ屋」などの副業に進出、統括部長である登坂が代わって興行の現場監督的な立場として表舞台に立つ様になった。
現在は、自主興行のほか、DDTプロレスリングKAIENTAI DOJOと「天下三分の計」と称した合同興行なども行っている。また、2007年からは、「興行権付き福袋」と称して、正月に興行権をファンに販売し、興行を開催するという企画も実施している。
2010年に開催された設立15周年記念大会にあっては、かつてCZW軍の主要員であったニック・ゲージのみならず、欠場となったトレント・アシッドの代理としてCZWオーナーのDJハイドが参戦。おおよそ10年ぶりの団体交流が実現した。またこの頃から「ストロングBJ」をスローガンに掲げ、既に関本大介を通じて関係を持っていたZERO1との交流を深めるなどストロング部門にも力を入れるようになる。9月9日新宿FACE大会にて関本がZERO1 世界ヘビー級王座奪取に成功した。同年には大日本が音頭を取り「年越しプロレス」を開催し、メジャー・インディー・女子など30以上の団体、プロモーションが後楽園ホールに集結して大会を成功に導いた。
2011年、2月から4月にかけてデスマッチ部門でのシングルリーグ戦「一騎当千」を開催、優勝者の佐々木貴には5月5日横浜文体でのデスマッチヘビー級次期挑戦権が与えられた。このリーグ戦の期間中にあたる3月11日東北地方太平洋沖地震東日本大震災)と東京電力福島第一原子力発電所での事故が発生。施設の損傷と電力事情悪化で、21日夜開催予定の後楽園ホール大会開催が危ぶまれたが、震災後後楽園初開催となった昼のアイスリボンに続いて無事開催にこぎつけた。ストロング部門では全日本プロレスと交流。3月21日両国国技館大会にて関本大介・岡林裕二が同団体のアジアタッグ王座を獲得した。7月、それまで代表取締役社長を務めていた小鹿が退任し、後任として統括部長だった登坂栄児が代表取締役社長に昇格する(小鹿は代表権のない取締役会長に)。8月25日後楽園、元全日本女子プロレスのリングアナウンサーの今井良晴がゲストでリングコールを行い、これ以降、今井リングアナが後楽園・横浜文体を中心に彼が死去する直前の2013年6月30日まで参加。12月、業務提携を行っているCZWwXwのライセンス契約締結。
2012年、前年に続きシングルリーグ戦「一騎当千」を開催。前年と違い、こちらはストロング部門のリーグ戦。リーグ戦に優勝した佐々木義人は、大日本ヘビー級王座廃止で消滅していたストロング部門の新王座創設を明言。「BJW認定世界ストロングヘビー級王座」が創設され、5月5日、横浜文体にて初代王者決定戦が行われた。6月より六角橋商店街で行われていた商店街プロレスを、横浜市商店街総連合会との共同企画で市内10数ヶ所に拡大し開催。7月15日、デスマッチ新世代の一人であった山川竜司が札幌テイセンホール大会をもって引退する(但しスタッフとして会社には残る)。
2012年下半期に入り、金村事件の影響で他団体より遅れ気味であったネット上での活動を活発化。まず事件の影響で禁止していた選手個人ブログの開設や、Twitterの利用を解禁。動画共有サイトでも12月にYouTube、翌2013年2月15日ニコニコ動画にて専門チャンネルを開設。同時にメディア部を新宿区に設立し、横浜本社から独立させる。このメディア部はニコ生のスタジオを兼ねている。
2013年5月、ストロングスタイルトーナメント「RISING」を開催。16人が出場し週1回ごとの3日間で決勝まで4試合を争い、河上隆一が優勝した。また、選手の離脱が相次ぎ層が薄くなっていたプロレスリング・ノアにもストロング部門から一部選手が参戦。一方、全日本プロレスが「鎖国」を打ち出したのに伴い交流が途絶え、代わってその全日本から分裂して旗揚げされたWRESTLE-1と交流が開始され、本格的な相互参戦が行われる。7月に今井良晴リングアナが死去した事を受けて追悼興行が10月1日後楽園ホールにて全女OGを中心とする女子選手の協力を得て開催された。スタッフの追悼興行は業界内でも異例の事である。
2013年から2014年にかけては欠場選手が続出し、一時はフリーのレギュラー参戦者を含め10人近くが欠場する異常事態となる。これを受けて「一騎当千 -strong crimb-」は中止になる方向だったが、選手側からの要望により時期をずらしての開催となった。その後は徐々に選手が復帰し新人選手もデビューする一方、大日本所属選手の退団や引退などが相次いだ上、団体設立の経緯から友好関係にあったプロレスリングFREEDOMSからデスマッチのレギュラー参戦者がいなくなるなど、陣容の大幅な入れ替えを迫られることになった。
2015年は団体旗揚げから20周年に当たるのを記念して7月20日両国国技館へ進出し、成功を収め2016年の両国開催も決定させた。他に札幌、横浜、名古屋、大阪、広島、福岡のビッグマッチツアーを行なっている。また後楽園ホール3連戦の最終日だった8月18日の開催日程を、悪性リンパ腫で闘病中の垣原賢人を支援する「Moving On〜カッキーエイド〜」に提供する形で協力した(垣原との接点はほとんどなかったが、同じプロレス界の人物として協力に至った)。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「大日本プロレス」の詳細全文を読む




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