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遠山友政 : ウィキペディア日本語版
遠山友政[とおやま ともまさ]

遠山 友政(とおやま ともまさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将大名美濃国苗木城岐阜県中津川市。〕の城主、苗木藩の初代藩主。遠山友忠の三男(嫡男)。母は織田信長の姪〔『遠山家譜』(東京大学史料編纂所蔵)〕で、通称は初めは三郎兵衛と言ったが、後に父と同じ久兵衛に改めた。
== 略歴 ==
弘治2年(1556年)、飯羽間城で生まれる。元亀3年(1573年)、父に従って明照城に移り、祖父友勝の死で、同じく苗木城に移った。
天正2年(1574年)、武田勝頼が東美濃に侵攻した際に、長兄友信は武田方に内応し、次兄友重は明照城の落城で討ち死にした。このため友政が家督を継ぐことになった。
天正11年(1583年)、東美濃の覇権を巡って森長可と争い、その降誘を蹴って戦って敗れた。友政は父や家臣をつれて、浜松徳川家康を頼って落ち延び、菅沼定利に属した。
天正18年(1590年)の小田原征伐後、徳川氏が関東転封となると、榊原康政(あるいは井伊直政〔)に属して、その領地である上野国館林に移住した。
慶長5年(1600年)、上杉景勝が命令に従わないとして家康が会津征伐を始めると、石田三成が決起して関ヶ原の役が始まった。この時、東美濃では岩村城主の田丸直昌〔森長可の子、森忠政は信濃松代城に転封。〕、苗木城主の河尻秀長犬地城主の遠藤胤直、また犬山城主で木曽代官であった石川貞清など尽く西軍に属した。徳川秀忠を大将とする東軍が中山道に進んで来ると知ると、彼らはこれを封鎖しようとしたので、家康は木曾義利〔関東転封時に家康に付けられて移封された。〕の家臣山村良勝千村良重を木曽へ、友政を苗木へ、(明知遠山氏の)利景を明知へ、小里光親小里へ派遣するなどして、故郷に戻って兵を集めて城を攻略するように命じた。河尻秀長は伏見城の戦い等に参加して苗木城には不在で、友政は勝手知ったる旧領に戻ると中津川・駒場に放火。領民を諭して味方につけて城に攻めかけて、混乱のうちに城を奪還して入城した。各々も各城を落として田丸勢を岩村城に包囲したところで、関ヶ原は勝敗が決し、田丸勢も投降した。
結局は秀忠軍は遅参となったが、東美濃衆のこれらの働きは家康からも賞賛され、友政は河尻が厳封された1万石をそのまま与えられて、苗木城と恵那郡・加茂郡、1万500石の知行を回復した。
慶長19年(1614年)、大坂冬の陣では伊勢国桑名城を守備し、翌年の大坂夏の陣では松平忠明の隊に属して、首級2つの武功を挙げた。
元和5年(1620年)、苗木城で死去した。享年65。法名は雲林寺殿心月宗伝居士。家督は嫡男の秀友が継いだ。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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