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越後長岡藩 : ウィキペディア日本語版
越後長岡藩[ながおかはん]

長岡藩(ながおかはん)は、越後国古志郡全域及び三島郡北東部、蒲原郡西部(現在の新潟県中越地方の北部から下越地方の西部)を治めた。現在の新潟県長岡市新潟市を支配領域に含む藩であった。山城長岡藩と区別するため、越後長岡藩(えちごながおかはん)と国名を冠して呼ばれることもある。
藩庁は長岡城長岡市)。藩主は初めに堀氏(80,000石)、のちに牧野氏に交替した。牧野氏の家格帝鑑間詰めの譜代大名で、石高ははじめ62,000石、後に加増されて74,000石になった。正徳2年(1712年)の内高は約115,300石、安政元年(1858年)には約142,700石あった。戊辰戦争奥羽越列藩同盟側で敗北したため24,000石に減封となり、明治3年(1870年)に廃藩となった。
==沿革==
越後長岡藩の中心領域となった現在の長岡市域には、江戸時代初期には蔵王堂藩が存在していたが断絶し、高田藩領となっていた。
元和2年(1616年)、高田藩主松平忠輝大坂の役における不始末から除封されると、外様大名堀直寄が80,000石をもって古志郡の旧蔵王堂藩領に入封した。直寄は蔵王堂城が信濃川に面して洪水に弱いことから、その南にあって信濃川からやや離れた長岡(現長岡駅周辺)に新たに築城、城下町を移して長岡藩を立藩した。
直寄は2年後の元和4年(1618年)には越後村上に移され、代わって譜代大名牧野忠成長峰藩50,000石より、長岡へ62,000石に加増の上で入封する。牧野氏は堀氏ら外様大名の多い越後を中央部において抑える役割を委ねられ、元和6年(1620年)には1万石を加増、次いで寛永2年(1625年)に将軍秀忠より知行74,000石余の朱印状を交付された〔この時の2,000石の増分は、この朱印状の表示高74,000石と添付の知行目録の合計村高(72,000石余)の差額で、将来の新墾田の開発分2,000石を見込んだものである(参考→稲川明雄『シリーズ藩物語・長岡藩』現代書館)〕〔元和6年の加増分・栃尾郷1万石は、前年の元和5年の大名福島正則の改易にともない、牧野忠成が改易申し渡しの使者を務め、また安芸国広島城受け取りにも参加して無事任務を終えたので、その恩賞または福島正則正室が徳川家康養女(実は牧野忠成の実妹)であったため忠成がこれを引き取った際の扶養料とされる。(参考→今泉省三『長岡の歴史 第1巻』野島出版)〕。
その後、長岡城と城下の拡充・整備および領内の田地の改良・新墾田開発をすすめ、藩領の新潟湊新潟町奉行をおいて管理、これを基点とする上方との北前船の物流を活用して藩経済は確立された。知行実高は表高を遙かに上回るようになり、新潟湊の運上金収入もあいまって藩は豊かになった。また信濃川水運の船問屋利権も有していた。その後は次第に諸経費が増加する一方で年貢収納率は逆に低下したために藩財政は逼迫しはじめ、また9代忠精以降は藩主の老中京都所司代への任用が増えて藩の経費もかさみ、更に天保年間に新潟湊が幕領として上知され、その一方で軍事費の増強の必要性が高まると財政問題は根本的解決が迫られた。その結果、幕末の河井継之助の藩政改革の断行へ進むことになった。
しかし、改革半ばにして明治維新の動乱に接し、徳川氏処罰反対の立場とる長岡藩は戊辰戦争に巻き込まれ、慶応4年5月(1868年新暦6月)河井の主導のもと奥羽越列藩同盟に参加を決定、同盟軍側(東軍)として長州藩薩摩藩を中心とする維新政府軍(西軍)に抗戦したが敗北した。明治元年12月22日(新暦1869年2月3日)に赦免されて24,000石(牧野氏)で復活、まもなく財政窮乏などの理由で藩主牧野忠毅は明治3年10月22日(1870年11月15日)に城知を返上して柏崎県に併合され、長岡藩は廃藩となった。
(この節の出典→今泉省三 『長岡の歴史 第1巻』/1968年 野島出版、『長岡市史 (通史編・上巻)』/1996年 長岡市)
== 藩風 ==
藩風は藩祖以来の「常在戦場」「鼻ハ欠とも義理を欠くな」「武士の義理、士の一分を立てよ」「武士の魂ハ清水で洗へ」等の『参州牛窪之壁書』や「頭をはられても、はりても恥辱のこと」「武功の位を知らずして少しの義に自慢すること」等の『侍の恥辱十七箇条』と呼ばれた条目〔『参州牛窪之壁書』は同藩の藩士・高野餘慶の記した『御邑古風談』に書き留められているもの。また『侍の恥辱十七箇条』は『河井継之助の生涯』等の著作者の安藤英男によれば、初代藩主・忠成が長岡城に初めて入った時に諸士出仕の大広間に掲示したものだという(『定本 河井継之助』白川書院、pp19-20)。〕を常の武士の心がけとしてかかげ、質朴剛健な三河武士の精神を鼓吹するものである。明治初めの藩政再建中に小林虎三郎が、越後長岡藩の窮乏を見かねた支藩の三根山藩から贈られた米百俵を教育費にあてたという「米百俵の精神」もこのような藩風とともに生まれ、その後も長岡人の気風として受け継がれている。小林儀右衛門有之(海鴎)など学問で、上級藩士(大組)入りするものも出た。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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