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美濃部達吉 : ウィキペディア日本語版
美濃部達吉[みのべ たつきち]

美濃部 達吉(みのべ たつきち、1873年明治6年)5月7日 - 1948年昭和23年)5月23日)は、日本法学者憲法学者、政治家、東京帝国大学名誉教授。
天皇機関説を主張し、大正デモクラシーにおける代表的理論家として知られる。昭和時代には天皇機関説事件により、貴族院議員を辞職した。戦後の1948年には勲一等旭日大綬章を受章。
妻の多美子菊池大麓〔菊池大麓(箕作阮甫の孫)は東京帝大総長。〕の長女である。東京都知事を務めた美濃部亮吉は長男。商工省および企画院官僚だった美濃部洋次は甥にあたる。
==生涯 ==

===前半生===
1873年(明治6年)5月7日、兵庫県加古郡高砂町(現・高砂市)の漢方医美濃部秀芳美濃部秀軒の子。)の次男として生まれた〔父は漢方医であったものの、町内の子供達に習字や漢字を教えて、主としてその月謝で暮らしていたため、暮らし向きはあまり豊かでなかった。母は知識と教養を備えた賢夫人であった。三歳上の長男・俊吉は東京に出て東京帝国大学に学び、農商務省の役人となり、後には北海道拓殖銀行朝鮮銀行などの総裁も務めている。(以上、)〕。長じて、第一高等中学校予科を経て、1894年(明治27年)、東京帝国大学法科大学政治学科(現・東京大学法学部)に進み、天皇機関説を主唱した一木喜徳郎に師事する〔1、2年のときの成績はトップで、最終3年のときは2番であった。このとき1番は、美濃部の妹と結婚した南新吾である(前掲高見)。〕。1897年(明治30年)に大学を卒業し、高等文官試験行政科に合格して〔高等文官試験行政科の試験成績も2番だった(前掲高見)。〕、内務省に勤務する〔美濃部は大学院への進学を希望していたが、兄・俊吉(当時、農務省勤務)から生活援助を受けていたため、卒業後すぐに自活の途を講じなければならず、やむなく内務省に勤めた(前掲高見)。〕。1899年(明治32年)にドイツフランスイギリスに留学し〔やむなく役人生活に入ったもののなじめず、学究への志も止みがたくいたところ、恩師・一木から大学で比較法制史講座の担任者となることを打診される。美濃部はこの話を受け、一木の推薦を得て大学院に進んだ。もっとも、欧州留学までは内務省試補という名目で、内務省から手当を受けていた(前掲高見)。なお、美濃部は憲法学においてゲオルグ・イェリネックの影響を極めて強く受けたことは美濃部自身が認めるところであるが、美濃部の留学の名目が担当講座の比較法制史の研究であったので、イェリネックの講義を聞くことができなかったことを後年まで後悔した(ゲオルグ・イェリネック著・美濃部達吉訳『人権宣言論他三論』(日本評論社、1946年)はしがき)。〕、翌1900年(明治33年)に東京帝国大学助教授、1902年(明治35年)に同教授となり比較法制史の講座を担任する〔比較法制史講座の担任は1911年(明治44年)までで、後は中田薫が受け持った。〕。大学の同期に国際法学者の立作太郎、公法学者の筧克彦がおり、また東京帝国大での弟子に憲法学では清宮四郎宮沢俊義鵜飼信成柳瀬良幹松岡修太郎中村哲 (政治学者)、行政法学では田中二郎柳瀬良幹・宇賀田順三・園部敏らがいる。東京帝国大に先立ち、東京高等商業学校(後に東京商科大学、現・一橋大学)でも憲法・行政法の講義を担任し、1903年(明治36年)10月には同校の兼任教授となり、定年退官の翌年である1935年(昭和10年)3月まで教鞭をとった。東京商科大学での弟子に公法学者の田上穣治がいる。また、1903年(明治36年)には、一木夫妻の媒酌で、文部大臣菊池大麓の三女・民子と結婚した。1908年(明治41年)、一木が大学から退いた後を受けて、行政法第一講座を兼担。1911年(明治44年)、帝国学士院会員に任命された。
1912年大正元年)に発表した『憲法講話』で、天皇機関説を発表。同説は、ドイツのゲオルグ・イェリネックが主唱した「君主は国家におけるひとつの、かつ最高の、機関である」とする国家法人説に基づいて大日本帝国憲法を解釈し、日本の統治機構を解く学説である。同年、病気により退官した穂積八束教授の後を受けて東京帝国大学法科大学長に就任し、天皇主権説を唱えた上杉慎吉教授と論争を展開した。こののち天皇機関説は大正天皇昭和天皇、当時の政治家や官僚らにとっても当然のものとして受け入れられるようになっていった。1920年(大正9年)、講座増設で憲法第二講座が設けられ、行政法第一講座と兼担する。
1930年(昭和5年)、ロンドン海軍軍縮条約の批准に関連して、いわゆる統帥権干犯問題が起きた際には、「兵力量の決定は統帥権の範囲外であるから、内閣の責任で決定するのが当然である」として濱口雄幸内閣の方針を支持した。また1932年(昭和7年)に血盟団事件井上準之助大蔵大臣が暗殺された際には、政府による右翼取締りの甘さを非難した。政党による行き過ぎた利権誘導にも批判的で、内務省の革新官僚が推進した知事・官僚の身分保障規定(文官任用令11条)の復活には賛成論を唱えている。同年5月には貴族院勅選議員となる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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