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中院通為 : ウィキペディア日本語版
中院通為[なかのいん みちため]

中院 通為(なかのいん みちため)は、室町時代後期の公卿権中納言中院通胤の子で、母は姉小路済継の女である。父祖と同じく、たびたび加賀に下向・在国し、家領額田庄などの直務支配に努めた。本名は通右通量

== 経歴 ==
大永元年(1521年)9月に5歳で叙爵され、同6年(1526年)10月侍従に任官。享禄4年(1531年)4月従四位下に叙されて元服し、天文2年(1533年)11月左権中将を兼ねた際に通量から通為へ改名した。同3年(1534年)2月従四位上参議に叙任されて公卿に列し、同4年(1535年)2月正四位下、同5年(1536年)4月従三位へと進む。同6年(1537年)3月幕府加賀額田庄の代官を主張する国人朝日氏の訴訟を退け、中院家による直務を命じたため、6月に同国へ下向。在国中の同9年(1540年)6月所労のため辞職したが、同10年(1541年)6月朝廷から在京継続の要請を受け、9月に上洛・参内し、12月参議に還任する。さらに同11年(1542年)閏3月正三位権中納言に叙任され、同12年(1543年)3月侍従を兼ねた。同年11月年貢を未進した泉弥二郎なる者に対処すべく、再び加賀へ下向。通為は泉の田地を没収する強硬策に出るも、報復されて横領の暴挙に遭い、同15年(1546年)5月幕府から額田庄の知行が安堵されている。その後の直務の動向は不明ながら、同24年(1555年)9月加賀より再び上洛し、弘治2年(1556年)1月正二位、9月権大納言に叙任される。永禄元年(1558年)9月近臣となったが、どのような事情があってか、翌2年(1559年)11月三度加賀へ下向。初め額田庄内の桑原(加賀市桑原町)に居住し、やがて越前から一向衆が乱入した際、北上して能美郡山内へ逃れた。
永禄7年(1564年)12月在国のまま師秀親王勅別当となる。翌8年(1565年)8月万里小路惟房へ書状を送り、「所労危急」のため任槐(大臣に任じられること)を嘆願して勅許を得たが、これには条件が付され、もし本復すれば召し返すこと、逝去すればその日を以て任日とすべしとのことであった。しかして、通為は9月3日に癰腫(腫れ物)のため山内で薨去したので、後日、朝廷では同日付を以て任内大臣宣下が行われたという(『公卿補任』『諸家伝』)。ただし、同時代の広橋兼秀の自筆と推定される『異本公卿補任』(広橋家本)にはこの注記が一切なく、通為は「腫物所労」で起居していた折、越前より乱入した一向衆に放火されて焼死し、永禄10年(1567年)9月内大臣を追贈されたとの異説が見える。何れにしても、祖父通世と父通胤の官が権中納言に留まった通為にとって、大臣昇任が悲願であったことは疑いない。
歌人としては『詠百首和歌』(京都大学附属図書館中院文庫蔵)を残しているが、この中には「いかばかり都の手ぶり忘れましひなのすまゐのとしも経ぬれば」など、在国の侘しさを詠んだ歌も見られ、戦国期公家の心情が窺える。この他、百韻連歌を嗜んだり、正親町天皇の命で源氏物語を校合したりすることもあった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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