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鳥山啓 : ミニ英和和英辞書
鳥山啓[とりやま ひらく]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [とり]
 【名詞】 1. bird 2. fowl 3. poultry 
: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 

鳥山啓 : ウィキペディア日本語版
鳥山啓[とりやま ひらく]
鳥山 啓(とりやま ひらく、天保8年8月25日1837年9月24日) - 大正3年(1914年2月28日)は、紀伊田辺藩(現和歌山県田辺市)出身の博物学者、教育者、作詞家南方熊楠の恩師であり、「軍艦(軍艦行進曲)」の作詞者としても知られる。
== 生涯 ==
天保8年8月25日(1837年9月24日)、田辺の大庄屋田所佐平の次男として生まれる。幼名は象次郎。名を為助〔谷村, 100ページ、谷村・鳥山, 107ページ〕、を明郷とした〔谷村・鳥山, 107ページ〕。田辺藩士鳥山純昭の養子となり、藩主安藤直裕の近従として召し出される〔谷村・鳥山, 107ページ。鳥山嶺男は「安藤直」としている〕。8歳の頃から真砂丈平から漢学を、医師石田三郎から本草学を学び、15歳からは和歌山に出て本居内遠と熊代瑞穂に就き国学を修め、その傍らで天文学科学地理学英学なども幅広く学んだ〔谷村・鳥山, 107ページ〕。これらの勉学の甲斐あってか博識の覚えめでたく、直裕より「啓」の名前を賜った〔谷村・鳥山, 107ページ〕。慶応2年(1866年)からの第2次長州征伐には砲兵隊の一員として参加〔谷村・鳥山, 108ページ〕する傍ら、斥候の任務にも就いた〔谷村, 100ページ〕。部隊は石州口で毛利元純大村益次郎が率いる長州軍と戦ったものの、弾薬を使い果たして退却し、直裕は総督の任を解かれる事態となった。廃藩置県直前には、同志とともに藩政改革を主張して直裕に直訴したこともあった〔谷村, 100ページ、谷村・鳥山, 108ページ〕。
明治維新後は神戸のイギリス領事館で勤務したこともあったが、脚気を患い田辺に戻った〔谷村・鳥山, 108ページ〕。その後は田辺藩校で英語を教えたのを振り出しに教育者として活躍。和歌山中学校時代には理科や国学なども教えるようになった。この頃、南方熊楠に博物学を教え、熊楠はこの事を後々まで感謝していた〔谷村, 109ページ〕。明治19年(1886年)、上京して華族女学校教授に就任。和歌山時代と同様に理科や国学を教えた。明治39年(1906年)に華族女学校と学習院が合併して学習院女学部になったのを契機として職を辞し、番町の自宅で余生を過ごした〔谷村・鳥山, 108ページ〕。
大正2年(1913年)末に脳溢血で倒れ、以降は寝たきりとなった。翌大正3年(1914年)1月、海軍省教育局は軍歌集『海軍軍歌』を発布。『海軍軍歌』の編纂にあたった海軍軍楽師瀬戸口藤吉は、「軍艦」を『海軍軍歌』に収録する許可を得るため、『海軍軍歌』発布後に鳥山家を訪問。しかし、重態のため代わりに三男の鳥山嶺男が応対して収録の許可を出した〔谷村, 102ページ。谷村が同ページで指摘しているが、この場合は「許可」というより「事後承諾」といった意味合いが強い〕。2月28日、自宅で以下の辞世を認めた後没した。
草に木に 虫に鳥にも なりぬべし 十まり四つの 元にかへらば
「十まり四つの元」というのは元素を指し〔谷村, 109ページでは酸素水素炭素窒素石灰リンカリソーダ硫黄塩素ヨウ素フッ素ケイ素〕、「自分が死んだら元素に分解され、それらがやがて草や木、虫、鳥となるだろう」というのが谷村政次郎の解釈である〔谷村, 109ページ〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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