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高柳重信 : ミニ英和和英辞書
高柳重信[たかやなぎ じゅうしん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [たか]
 【名詞】 1. quantity 2. amount 3. volume 4. number 5. amount of money 
: [やなぎ]
 【名詞】 1. willow 2. slim 
: [おも]
  1. (adj-na,n) main 2. principal 3. important
: [まこと, しん]
  1. (adv,n) truth 2. faith 3. fidelity 4. sincerity 5. trust 6. confidence 7. reliance 8. devotion 

高柳重信 : ウィキペディア日本語版
高柳重信[たかやなぎ じゅうしん]
高柳 重信たかやなぎ じゅうしん1923年1月9日 - 1983年7月8日)は俳人。本名は高柳重信(しげのぶ)、俳人としては「じゅうしん」を自称した。3行ないし4行書きの多行書きの俳句を提唱、実践し、金子兜太らとともに「前衛俳句」の旗手となった。歌人の高柳蕗子は実子。俳人中村苑子と事実婚(内縁関係)にあった。
==来歴==

東京市小石川区(現文京区)に生れる。父の市良は群馬県佐波郡出身で、大蔵省技手、建築請負業を経て、戦後は印刷業に従事した。黄卯木の俳号を持つ俳人でもあった。妹の高柳美知子性教育の研究者で、"人間と性"教育研究協議会の創設メンバーを務めた。
1931年、重信は小学校の国語の時間に俳句を作らされた。年譜などではこれが最初の句作のエピソードとして記されている。
1935年、東京府立第九中学校に入学。1936年、父の所属誌『春蘭』に十句を投稿し、そのうちの二句が選出される(俳号は翠峰)。
1940年、早稲田大学専門部法科に入学。「早大俳句研究会」に所属し、俳誌『睦月』に入会。また友人らとは同人誌『群』を創刊。号を翠子とあらためる。1941年、「愛国俳句欄」を設けた『睦月』の主旨に反対し、脱会。新たに友人らと「早大俳句会」の創立を計画したが、折からの大戦の勃発によって中断される。
1942年、私誌『抵抗線』を謄写版刷で作成。『早大俳句』を創刊。大学は9月に繰り上げ卒業するが、同時に肺結核に罹患した。1945年、群馬県に疎開し、前橋の理研重工業に勤務。同地で終戦を迎える。
1946年、埼玉県戸田市に移転。『群』『薔薇』を発行。谷川洵の筆名で詩・短歌・散文を執筆。1947年、吉祥寺の富沢赤黄男(かきお)邸を初めて訪問し、『太陽系』(のち『火山系』)に参加。恵幻子の筆名で評論を発表。1948年、友人らと同人誌『弔旗』を創刊。1949年、『火山系』の廃刊をうけ、新たに『黒彌撒』創刊。塚本邦雄との交遊が始まる。
1950年、第一句集『蕗子』を上梓。1951年、友人らと『七面鳥』を創刊。黒彌撒同人句集『傾斜都市』を刊行。
1951年、第二句集『伯爵領』を上梓。富沢赤黄男らを擁して『薔薇』を創刊。同誌は赤黄男が作品欄の選をする会員作品140名ほどの集団となる。
1953年、山本篤子と結婚。現代俳句協会会員となる。11月、埼玉県俳句連盟発足、常任理事となる。
長女蕗子生まれる。三橋鷹女「薔薇」に参加。
1954年、初期作品を整理して第三句集『前略十年』を刊行。1956年、第四句集『黒彌撒』を上梓。
1958年、『薔薇』を解消。三月に同志を募って総合同人誌『俳句評論』を創刊。創刊世話人は富沢赤黄男、三橋鷹女高屋窓秋永田耕衣三谷昭湊楊一郎折笠美秋ほか六名。中村苑子を『春燈』より招請し、同氏宅を発行所とする。妻、高柳篤子(後に渡米し、広岡マリの名で画家として活動)と離婚したのち、苑子と生涯をともにしたが、事実婚のままであった。
1962年、同人合同作品集『現代俳句選集』刊行。富澤赤黄男死去。1965年、喀血し入院。退院後、『定本・富沢赤黄男句集』を刊行。
1967年、サンケイ銀座俳句教室の講師に就任。1968年、総合誌『俳句研究』(俳句研究社、のち俳句研究新社)の編集長に就任。その後、同誌を通じて安井浩司坪内稔典夏石番矢摂津幸彦らを見出す。
1970年、海程戦後俳句の会から『高柳重信句集』を刊行。1972年、第五句集『高柳重信全句集』刊行。1973年、新人発掘の強化を図るべく、五十句競作を企画し、みずから募集作品の選考にあたる。1974年、第一評論集『バベルの塔』を刊行。
1976年、第七句集『山海集』刊。『三橋鷹女全句集』『富澤赤黄男全句集』『高屋窓秋全句集』の編集に没頭。1977年、『俳句評論』創刊二十周年記念『昭和俳句選集』を編集し発行。立風書房『現代俳句全集』『鑑賞・現代俳句全集』の編集委員を担当。1978年、第二評論集『現代俳句の軌跡』刊。
1980年、山川蝉夫という別人格による作品『山川蝉夫句集』を発表。発想と同時に書ききるという一行の俳句形式を行う。
1983年、『俳句研究』50巻記念祝賀会を京王プラザホテルで開催。7月7日に肝硬変と診断される。翌日早朝、静脈瘤破裂により救急車で病院へ。午前6時14分に永眠。12月、『俳句評論』は第二百号記念と「追悼・高柳重信」を特集し、終刊となる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「高柳重信」の詳細全文を読む




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