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高木ブー : ミニ英和和英辞書
高木ブー[たかぎ ぶー]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [たか]
 【名詞】 1. quantity 2. amount 3. volume 4. number 5. amount of money 
: [き]
 【名詞】 1. tree 2. wood 3. timber 
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

高木ブー : ウィキペディア日本語版
高木ブー[たかぎ ぶー]

高木 ブー(たかぎ ブー、''Boo Takagi''〔『第5の男』の表紙と奥付にBoo takagiと記されている。〕、1933年3月8日〔デビューから暫くの間公式発表していた年齢は6歳サバを読んでおり、最近の文献やテレビ番組でも年齢に矛盾が見られる場合がある。高木がテレビで語ったところによるとサバを読んでいたのは荒井注が実年齢より6歳若く昭和9年生まれにして高木ブーより年下になってしまったため、メンバー間の序列のバランスを取るため年齢を変えさせられたとの事。〕 - )は、日本コメディアンミュージシャンタレントザ・ドリフターズこぶ茶バンドのメンバーである。
本名:高木 友之助(たかぎ とものすけ)。身長160cm。血液型O型
芸名の由来となったのは若い頃からの肥満体型である。
== 来歴 ==
東京府東京市豊島区巣鴨(現:東京都豊島区巣鴨)に生まれる。戦災で焼け出され、母方の郷里を頼って千葉県東葛飾郡柏町篠籠田の地(現:柏市明原2丁目)に一家で移り住み育った。3人の兄と2人の姉を持つ末っ子だったため、6番目の子という意味で、近所では「ロクさん」または「友ちゃん」という愛称で親しまれていた〔松戸よみうり〜私の昭和史 忘れ得ぬ人びと 人生一期一会(26)高木ブーさんの恋多き青春時代 根本圭助 〕。
柏から汽車と都電を乗り継ぎ、都内の中学高校大学へ通う。京北学園中学校3年の時、兄からウクレレを贈られた事がきっかけで夢中になる。中央大学経済学部卒業〔いかりやの自伝「だめだこりゃ」の仲本工事の欄には「(大卒メンバーであった荒井脱退後は)彼(仲本)だけが大学を卒業していた」と書かれてあるが、これは間違いであり、荒井や仲本だけではなく高木も大卒メンバーである。〕。在学中は音楽研究会「ルナ・ハワイアン」に所属。この研究会の先輩に谷啓がいる。
1990年代後半からは、ウクレレ奏者としてクローズアップされているが、元々中大在学中からハワイアン・ミュージックに造詣を持ち、ユニットを結成、当時都内の学生の間で名前が知れ渡る程の腕前を持っていた。
大学卒業後、東京ガスの採用内定を蹴ってプロのミュージシャンとなる。当時の芸名は高木智之で、「高木智之とハロナ・セレナーダス」「高木智之とハロナ・リズム・コーラス」「ニュー・フレッシュメン」「ジェリー藤尾とパップ・コーンズ」「ロジェ滋野とシャドーズ」のバンドマンとして米軍キャンプ等で演奏。パップ・コーンズではバンジョーを、シャドーズではエレキギターを担当していたが、横浜のジャズ喫茶「ピーナッツ」での演奏中に、桜井輝夫といかりや長介にスカウトされ、1964年9月16日〔『第5の男』p.95〕、ピアニストの欠員補充としてザ・ドリフターズに参加。いかりや長介の著書によると、外見がコミックバンド向きなので新生ドリフにスカウトしたと述べている。
ドリフ加入後もしばらくは「高木智之」を名乗っていたが、のち現在の芸名に変更〔昭和40〜50年代のプロフィールでは「本名:高木智之」と記載されたものもあった。〕。『高木ブー』という名前は、渡辺プロの先輩である「クレージーキャッツ」のリーダー・ハナ肇が、「お前は太っているからブーでいいや」という一言で、本名の「高木」に「ブー」を組み合わせて付けられた〔『第5の男』p.106-107〕。しかしいかりや説によれば、「ブーたん」と言うあだ名から、ハナ肇より「たんを取れ」と言われブーになったとのこと。加藤茶は「高木は見た目でブーなんだけど、ハナさんが『ブタ小屋はきれいに洗わないと』なんて」と、経緯を語っている〔朝日新聞夕刊「人生の贈りもの」2008年12月3日掲載より〕。
1984年9月14日、『8時だョ!全員集合』のリハーサル中に両足のアキレス腱を断裂し、約4ヵ月の間活動を離脱している。この間『全員集合』のオープニングクレジットでは括弧書きになっていた。またこの時、本人は活動離脱を機に番組からフェードアウトすることも考えていたという。しかしそれを聞いたリーダーであるいかりやの粘り強い説得が高木本人の心を動かし、高木は翌年の放送から再び同番組へ復帰。
1985年9月28日、『全員集合』が終了。その後、ドリフのメンバーとして初めて単独での活動を開始。別役実の芝居に複数出演し、将来は新劇の役者になるのかと思っていたこともある〔『第5の男』p.134-137〕。
同じ1985年にはフジテレビ火曜ワイドスペシャルドリフ大爆笑』の「長介・工事・ブー おなじみ雷様」コントがシリーズ化され、主役を演じた高木の当たり役となる。以後、雷様の扮装(角付き・緑のアフロヘアーのかつらに緑色の全身タイツと虎柄ショートパンツ)がトレードマークとなり、1999年4月から6月に放送されたNHK教育テレビ趣味悠々 高木ブーの今すぐ始めるウクレレ』でも雷様の扮装だった。
1991年水戸黄門第20部』にゲスト出演している。前年の1990年には仲本工事左甚五郎役でゲスト出演している。
2001年東京麻布十番にハワイアンバー「ブーズバー・ハロナ」を開店 (2006年7月まで)。また、カメハメハ大王の直系の子孫でハワイ大学教授人間国宝ルビライト・カウエナ・ジョンソンからハワイ文化の普及に対する貢献を評価され、ハワイアンネーム「ホアコクア」を授かった。ハワイ語で「友達を助け支えになる。精霊を分け与える」の意味である〔『第5の男』p.170-171〕。
ハロナ・セレナーダス時代の仲間の青木健たちと共に「高木ブーとニュー・ハロナ」を結成するなど、ウクレレ奏者としての活動も盛んで、CDアルバム『LET IT BOO』をはじめ、2002年にはモーニング娘。とのコラボレーションでハワイアン風のCD、2004年10月に『美女とYABOO!』をリリース発表している(詳細は高木ブー#CD参照)。
2002年明治乳業VAAMのCMに出演し、マラソン選手高橋尚子と共演した。
2003年6月から7月放送のNHK総合テレビ『連続ドラマ 女神の恋』で農場経営者の役を演じた。
2008年3月には、大好きなウクレレで、憧れのハワイにおいて最高の名誉といわれるワイコロア・ウクレレ・フェスティバルにプロ演奏者として初めて招聘された (ハワイで唯一の日本語専門ラジオ局KZOOの2008年3月10日付ニュースで紹介された)。また2009年3月にも同フェスティバルにプロ演奏者として30分間のソロ・ステージをこなした(KZOOのニュースで3月9日に紹介)。
2009年4月、長年の肥満と0脚が影響し、変形性膝関節症を患い、ヒアルロン酸注射などの処置でしのいできたが、この年の舞台公演で悪化。右膝の人工関節置換術を受ける。6月、炎症が治まらず、細菌感染の影響である事が判明し、再手術。この頃のTV出演では杖を使用し、歩行にも相当支障が出ていた(TBS『ザ・ドリフターズ結成45周年記念!!8時だョ!全員集合SP』 - 4月1日放送、など)。
2011年3月、左膝も変形性膝関節症が進行している事がわかり、その影響で右膝が悪化する危険性が指摘され、左膝も人工関節置換術を受ける。その後、移動には手押し車を使用しているが、ダイエットとリハビリで以前よりも痛みが無くなり、歩行状態も改善してきているという〔。
2012年5月9日、同月6日夜、都内の自宅で気分が悪くなり、膝痛も悪化したことから自ら救急車を要請し、救急搬送されていた事が報じられた。大事には至らず翌7日には退院し、自宅療養となっている。その後は同年、7月14日に行われた仲本工事と三代純歌の結婚披露宴など、元気な姿を見せている。
2015年6月24日、ベストアルバム「Life is Boo-tiful 〜高木ブーベストコレクション」が発売された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「高木ブー」の詳細全文を読む




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