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顧和 : ウィキペディア日本語版
顧和[こ わ]
顧和(こ か、288年 - 351年)は、中国東晋官僚政治家は君孝。顧叙の子。本貫呉郡呉県男性
== 経歴 ==
荊州刺史顧容の曾孫にあたる。2歳で父を失ったが、幼年の頃から節操高く、族叔の顧栄に重んじられて、「これがわが家の麒麟であり、わが一族を興す者は、必ずこの子である」と評された。
王導揚州刺史となると、顧和は従事として召し出された。後に司徒左曹掾に累進した。東海王司馬沖が長水校尉となると、顧和はその下で主簿となった。322年永昌元年)、司徒掾に任じられた。太寧初年、王敦に召し出されて主簿となり、太子舍人・車騎参軍・護軍長史に転じた。王導が領揚州刺史となると、顧和はその下で別駕をつとめた。散騎侍郎・尚書吏部に転じた。郗鑑に請われて司空長史となり、晋陵郡太守を兼ねた。
咸康初年、顧和は御史中丞に任じられ、尚書左丞の戴抗を不正蓄財の罪により弾劾し、尚書の傅玩や郎の劉傭を免官させた。侍中に転じた。ときに東晋が建てられて以降、皇帝の被る冕冠の玉飾りが玉珠ではなく、翡翠珊瑚や雑珠を用いるようになっていた。顧和はこのことを礼に反しているとして、玉を用いることができないならば、白旋珠を用いるべきであると奏上した。成帝はこれを聞き入れて、太常に命じて改めさせた。また成帝は乳母の周氏の功労に対して名号を与えたいと考え、意見を求めた。顧和は後漢の霊帝が乳母の趙嬈を平氏君とした以外の先例がないことを述べて、これに反対した。成帝は顧和の意見に従った。顧和は吏部尚書に転じ、短い間に領軍将軍・太常卿・国子祭酒を歴任した。
康帝が即位し、郊祀をおこなうにあたって、顧和は新帝自らが行うべきと意見した。康帝はこれを聞き入れて、全ての礼を自ら挙行した。顧和は尚書僕射に転じたが、老母の介護を理由に固辞した。銀青光禄大夫の位を受け、国子祭酒を兼ねた。ほどなく母が死去すると、顧和は辞職して喪に服した。一周忌が過ぎると、衛将軍の褚裒の上疏により、顧和は尚書令として再起するよう命じられたが、十数回も上奏を繰り返して応じなかった。喪が明けた後、ようやく職についた。
ときに南中郎将の謝尚が宣城国内史を兼ねており、涇県令の陳幹を収監して殺害したため、御史にその違法を糾弾された。しかし謝尚は皇太后のおじだったことから、康帝に赦免されていた。顧和は刑罰の公正を訴えたが、康帝に聞き入れられなかった。ときに汝南王司馬統と江夏公衛崇が庶母の死に対して3年の服喪を許すよう求めたが、顧和は礼制に反した特別扱いに反対した。
351年(永和7年)、重病のため辞職すると、左光禄大夫・儀同三司の位を受け、尚書令のまま散騎常侍を加えられた。7月、死去した。享年は64。侍中・司空の位を追贈された。は穆といった。
子の顧淳は、尚書吏部郎・給事黄門侍郎・左衛将軍を歴任した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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