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青蛙房 : ミニ英和和英辞書
青蛙房[あおがえる]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [あお]
 (n) 1. blue 2. green 3. green light
青蛙 : [あおがえる]
 (n) green (tree) frog
: [かわず]
 (n) frog
: [ぼう, ふさ]
 【名詞】 1. tuft 

青蛙房 ( リダイレクト:岡本綺堂 ) : ウィキペディア日本語版
岡本綺堂[おかもと きどう]

岡本綺堂(おかもと きどう、1872年11月15日明治5年10月15日) - 1939年昭和14年)3月1日) は、小説家劇作家。本名は岡本 敬二(おかもと けいじ)。別号に狂綺堂、鬼菫、甲字楼など。著名な作品は、新歌舞伎の作者及び「半七捕物帳」などがある。
== 経歴 ==
徳川幕府御家人で維新後にイギリス公使館に書記として〔勤めていた敬之助(後に純(きよし)、号は半渓〔
〕)の長男として東京高輪に生まれる。1873年、公使館の麹町移転とともに麹町元園町に移って育つ。3歳にして父から素読、9歳から漢詩を学び〔、叔父と公使館留学生からは英語を学んだ。平河小学校(現麹町小学校)中等科第三級編入後〔、東京府尋常中学(のちの東京府立一中、現東京都立日比谷高等学校)在学中から劇作家を志した。卒業後1890年、東京日日新聞入社〔。以来、中央新聞社、絵入日報社などを経て、1913年まで24年間を新聞記者として過ごす。日露戦争では従軍記者として満州にも滞在した。吉原芸妓をしていた宇和島藩士の娘の小島栄を落籍して結婚。
記者として狂綺堂の名で劇評や社会探訪記事を書きながら、1891年、東京日日新聞に小説「高松城」を発表。1896年、『歌舞伎新報』に処女戯曲「紫宸殿」を発表。1902年、「金鯱噂高浪(こがねのしゃちうわさのたかなみ)」(岡鬼太郎と合作)が歌舞伎座で上演される。この作品の評価はいまひとつだったようだが、その後、「維新前後」や「修禅寺物語」の成功によって、新歌舞伎を代表する劇作家となり、「綺堂物」といった言葉も生まれた。
1913年以降は作家活動に専念、新聞連載の長編や、探偵物、怪奇怪談作品を多数執筆。生涯に196篇の戯曲を残した。1916年には国民新聞時事新報の2紙に新聞小説を同時に連載(「墨染」「絵絹」)。同年、シャーロック・ホームズに影響を受け、日本最初の岡っ引捕り物小説「半七捕物帳」の執筆を開始、江戸情緒溢れる描写で長く人気を得た。怪奇ものでは、中国志怪小説英米怪奇小説の翻案や、『世界怪談名作集』、『支那怪奇小説集』などの編訳もある。幼少期からの歌舞伎鑑賞を回想した『ランプの下にて』は明治期歌舞伎の貴重な資料となっている。
1918年に欧米を訪問し、作風が変わったとも言われる。1923年9月1日の関東大震災麹町の自宅・蔵書(日記)を失い、門下の額田六福の家に身を寄せ、その後麻布、翌年百人町に転居。1930年には後進を育てるために月刊誌『舞台』を発刊、監修を務める。1937年には演劇界から初の芸術院会員となる。昭和10年頃からは小説(読物)や随筆は、散発的に『サンデー毎日』誌に書く巷談ぐらいになり、1937年「虎」が最後の読物となるが、戯曲は『舞台』誌で1938年まで発表を続けた。
1939年、目黒にて肺炎により死去。青山墓地に葬られる。没後、元書生で養嗣子の岡本経一が綺堂作品の保存普及を目的として出版社「青蛙房」を創立した。現社長の岡本修一は綺堂の孫にあたる。
また、没後に経一の寄付金をもとに戯曲を対象とする文学賞である岡本綺堂賞が創設されたが、日本文学報国会が運営していたため、終戦とともにわずか2回で終了した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「岡本綺堂」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Kido Okamoto 」があります。




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